アーウマナーウのビーチが目の前に広がっています!
アーウマナーウ(อ่าวมะนาว)とは「ライム湾」の意味で、
日本語ではマナオ湾やマナオ・ビーチと呼ばれているようですね。
じゃあ砂浜に下りてみましょう。
こっちが左手(北側)の景色。
湾の先端にある山はカオ・ロームムアック(ロームムアック山)。
その左手に空軍基地の施設が建ち並んでいます。
そしてぐーっと右にスパンして、
ビーチの中央の景色。
島が2つ沖に見えてますね。
この沖合にかつて日本の輸送船がやって来たことがありました。
時は1941年12月8日。タイ時間で午前2時半。
ハワイで真珠湾攻撃が始まった1時間ほど後のことです。
やって来た船「浄宝縷丸」(ジョホール丸)には、
日本陸軍第15軍宇野支隊の一部を主力とする部隊が乗っていました。
目的はこの地に奇襲上陸し「飛行場ヲ占領整備ス」るため。
浄宝縷丸からは飛行場の灯火が美しく輝いて見えていたそうです。
日本軍はあのロームムアック山を挟んだ向こう側のプラジュアップ湾と
アーウマナーウの二手に分かれて上陸を開始しました。
すると突如タイ側から射撃が始まります。
第5航空小隊(現第5航空隊)約140人と歩兵48人による迎撃で
日本側は多数の死傷者を出しますが、04:20頃上陸に成功して
基地施設を奪取。主だった戦闘は30分ほどで終わったようです。
その後同日昼頃にタイ政府との間に軍隊通過協定が締結され、
停戦の通知が各地に通達されたのですが、日本軍に通信施設を奪われ、
ロームムアック山麓に退却していたタイ軍には通知が届きませんでした。
そのため日本軍がタイに上陸した8地点の中でこの地がもっとも
長く戦闘(籠城による抵抗?)が続いてしまいます。
結局翌9日14時になってタイ政府からの電報を携えた郵便局員が
陸地からだと撃たれるのでなんと海を泳いで山に辿り着いたことで
命令が伝わり、ようやく停戦となったのでした。
ここでの戦闘による死者はタイ側資料によると、
日本側217人、タイ側42人(空軍38、警察1、少年義勇兵1、軍家族2)。
多くの犠牲者が出た戦闘は、まさにこのビーチと周辺で行われたのです。
前々からここに来なければと思っていたのですが、
今回ようやく達成できました。
そして右手(南側)の景色。
ビーチは全長5kmほどらしいですが、
海水浴に適しているのは、その半分ほどでしょうか。
振り返って見たホテル「ファーチョムクルーン」の外観。
低層なのは景観を壊さないためもあるんでしょうね。
ビーチの南端のほうにパラソルやバナナボートなどを
貸す業者がいるみたいです。
時刻は14:21。
遅めのランチとしますか。
ファーチョムクルーンは1号館と2号館があるのですが、
その間に、
クルア・ファーチョムクルーンという
ホテル運営のレストランがあったのでここで頂くとしましょう。
メニューをざっと見て注文したのは、
カーオパット・タレー。
訳すならシーフード・チャーハン。
エビ、イカ、カニが入っていてなかなかの美味。
水も頼んで合計60バーツでした。
ホテルにしちゃ安いですよね~。
日が暮れるまでにやりたいことが山ほどあるので
先を急ぎます。
さっきホテル受付で貸し自転車屋の場所を尋ねたところ、
2号館の横にあるとのことだったので探してみますか。
1号館とそっくりな外観の2号館前を通り過ぎ、
ビーチに沿った道を南下していくと、
↑フードセンター
↑第5航空隊充足経済学習センター
↑キャンプ・エリア
↑PTTガソリンスタンド
との看板が。
フードコートがありそうですね。
さらに歩いて行くと、
ここだな、貸し自転車屋。
しかしこのグループ用自転車は面白いですね。
良く見ると座席一列の2人用と二列の4人用があるじゃないですか。
家族連れにはいいですね。でもお父さん漕ぐの大変そう(笑)
私はこれではなく普通の自転車を借ります ^_^;)
<旅費交通費>
歩いただけなので:0バーツ
ここまでの合計:1,753バーツ
※旅は2016年5月24日(火)に行いました。
<参考>
『マレー進攻作戦』防衛庁防衛研究所戦史室、朝雲新聞社、1966年
ไทยรัฐออนไลน์ "วีรกรรมกองบิน 5"
คลังสมอง กองบิน 5 "วีรกรรม 8 ธันวาคม พ.ศ.2484 ณ กองบิน 5"(YouTube)
元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)
つづく
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◇ 中 級 ◇
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◇ 上 級 ◇
『タイ語上級講座 読解と作文』めこん
アーウマナーウ(อ่าวมะนาว)とは「ライム湾」の意味で、
日本語ではマナオ湾やマナオ・ビーチと呼ばれているようですね。
じゃあ砂浜に下りてみましょう。
こっちが左手(北側)の景色。
湾の先端にある山はカオ・ロームムアック(ロームムアック山)。
その左手に空軍基地の施設が建ち並んでいます。
そしてぐーっと右にスパンして、
ビーチの中央の景色。
島が2つ沖に見えてますね。
この沖合にかつて日本の輸送船がやって来たことがありました。
時は1941年12月8日。タイ時間で午前2時半。
ハワイで真珠湾攻撃が始まった1時間ほど後のことです。
やって来た船「浄宝縷丸」(ジョホール丸)には、
日本陸軍第15軍宇野支隊の一部を主力とする部隊が乗っていました。
目的はこの地に奇襲上陸し「飛行場ヲ占領整備ス」るため。
浄宝縷丸からは飛行場の灯火が美しく輝いて見えていたそうです。
日本軍はあのロームムアック山を挟んだ向こう側のプラジュアップ湾と
アーウマナーウの二手に分かれて上陸を開始しました。
すると突如タイ側から射撃が始まります。
第5航空小隊(現第5航空隊)約140人と歩兵48人による迎撃で
日本側は多数の死傷者を出しますが、04:20頃上陸に成功して
基地施設を奪取。主だった戦闘は30分ほどで終わったようです。
その後同日昼頃にタイ政府との間に軍隊通過協定が締結され、
停戦の通知が各地に通達されたのですが、日本軍に通信施設を奪われ、
ロームムアック山麓に退却していたタイ軍には通知が届きませんでした。
そのため日本軍がタイに上陸した8地点の中でこの地がもっとも
長く戦闘(籠城による抵抗?)が続いてしまいます。
結局翌9日14時になってタイ政府からの電報を携えた郵便局員が
陸地からだと撃たれるのでなんと海を泳いで山に辿り着いたことで
命令が伝わり、ようやく停戦となったのでした。
ここでの戦闘による死者はタイ側資料によると、
日本側217人、タイ側42人(空軍38、警察1、少年義勇兵1、軍家族2)。
多くの犠牲者が出た戦闘は、まさにこのビーチと周辺で行われたのです。
前々からここに来なければと思っていたのですが、
今回ようやく達成できました。
そして右手(南側)の景色。
ビーチは全長5kmほどらしいですが、
海水浴に適しているのは、その半分ほどでしょうか。
振り返って見たホテル「ファーチョムクルーン」の外観。
低層なのは景観を壊さないためもあるんでしょうね。
ビーチの南端のほうにパラソルやバナナボートなどを
貸す業者がいるみたいです。
時刻は14:21。
遅めのランチとしますか。
ファーチョムクルーンは1号館と2号館があるのですが、
その間に、
クルア・ファーチョムクルーンという
ホテル運営のレストランがあったのでここで頂くとしましょう。
メニューをざっと見て注文したのは、
カーオパット・タレー。
訳すならシーフード・チャーハン。
エビ、イカ、カニが入っていてなかなかの美味。
水も頼んで合計60バーツでした。
ホテルにしちゃ安いですよね~。
日が暮れるまでにやりたいことが山ほどあるので
先を急ぎます。
さっきホテル受付で貸し自転車屋の場所を尋ねたところ、
2号館の横にあるとのことだったので探してみますか。
1号館とそっくりな外観の2号館前を通り過ぎ、
ビーチに沿った道を南下していくと、
↑フードセンター
↑第5航空隊充足経済学習センター
↑キャンプ・エリア
↑PTTガソリンスタンド
との看板が。
フードコートがありそうですね。
さらに歩いて行くと、
ここだな、貸し自転車屋。
しかしこのグループ用自転車は面白いですね。
良く見ると座席一列の2人用と二列の4人用があるじゃないですか。
家族連れにはいいですね。でもお父さん漕ぐの大変そう(笑)
私はこれではなく普通の自転車を借ります ^_^;)
<旅費交通費>
歩いただけなので:0バーツ
ここまでの合計:1,753バーツ
※旅は2016年5月24日(火)に行いました。
<参考>
『マレー進攻作戦』防衛庁防衛研究所戦史室、朝雲新聞社、1966年
ไทยรัฐออนไลน์ "วีรกรรมกองบิน 5"
คลังสมอง กองบิน 5 "วีรกรรม 8 ธันวาคม พ.ศ.2484 ณ กองบิน 5"(YouTube)
元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)
つづく
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