念願のクイッティアオ・ルアに満足満足!
橋の両脇には、舟の物売りのオブジェが建っています。
もしかして水上マーケットもこの辺にあるんでしょうかね。
バス停で待っていたノンタブリー(バーンシームアン船着場)行きバスに乗車。
しかしさっきのバスにも増してボロいなぁ(笑)
ほぼ満席のバスは、09:45に出発しました。
ほどなくしてバーンブアトーン方面との三叉路に着いたところで私は下車。
左がバーンヤイ、右がバーンブアトーン方面です。
ここでバーンブアトーン行きの同じバス会社のバスに乗り換えます。
ほどなくやってきたバスに飛び乗り、バーンクルアイ・サイノーイ通りを一路北へ。
多分ラッタナーティベート通りを越えた辺りからだと思うんですが、
急に綺麗に整備された道になり、景色が一変しました。
地図と車窓の景色とを見比べつつ、目的地で下車。
ここ、バーンブアトーン市役所です。
な、なぜ!? って思いますよね。私も同感です(笑)
実は、ここバーンブアトーン郡には終戦直後、日本人が抑留されていた
「バーンブアトーン収容所」(カーイ・ピタック・バーンブアトーン)があったのです。
その跡地を見たいと思ったものの、場所が特定できません。
なので市役所で尋ねようと思ったのですが、収容所が60年前とは言え市内にあったとは
思えませんし、ヘタレな私は土壇場で尋ねる勇気もなく・・・(汗)
在京タイ王国大使館のバーンブアトーン収容所に関するページによると、
現在では収容所の痕跡は皆無だそうです。
まぁ、それも行くのを断念した理由の一つなのですが。
ただこちらのタイ人の方のブログによると、地元住民が
「バーン・カーイ2」(第2キャンプ)、「バーン・カーイ3」(第3キャンプ)
と呼ぶ地名として残っているんだとか。
でも地元の方もなぜそう呼ぶのかは、今や知る人はほとんどいないそうです。
あと、どこかで見つけたのですが、「クローン・カーイ2」(第2キャンプ運河)
という名の運河があるらしいです。地図を目を皿のようにして調べたのですが、
小さな運河らしく載っていませんでした。
バーンブアトーン収容所には、抑留日本人3,603人中の大部分にあたる、
3,449人(外交関係者および一般文民)が抑留されていたのだそうです。
残留を希望しない3,020人は、1946年6月16日に船でバンコクを発ち、
残留希望者のうち連合軍(英軍)に許可された146名が解放されたのは、
同年9月26日だったとのことです。
恐らく収容所があったのは、もっとずっと北西の方だと思います。
そこまでは時間的にも無理でした。でもバーンブアトーンに来られただけで
正直、私は満足なのです。
さて、こんなところで降りてしまって、これからどうするんだ!?
<交通費>
ノンタブリー行きバス:6バーツ
バーンブアトーン行きバス:8バーツ
ここまでの合計:55バーツ
※旅は2008年4月28日(月)に行いました。
元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)
つづく・・・
【参考文献】
村嶋英治「日タイ関係 1945-1952年, -在タイ日本人及び在タイ日本資産の
戦後処理を中心に-」早稲田大学アジア太平洋研究センター『アジア太平洋討究』
創刊号、早稲田大学アジア太平洋研究センター図書・編集委員会、2000年
橋の両脇には、舟の物売りのオブジェが建っています。
もしかして水上マーケットもこの辺にあるんでしょうかね。
バス停で待っていたノンタブリー(バーンシームアン船着場)行きバスに乗車。
しかしさっきのバスにも増してボロいなぁ(笑)
ほぼ満席のバスは、09:45に出発しました。
ほどなくしてバーンブアトーン方面との三叉路に着いたところで私は下車。
左がバーンヤイ、右がバーンブアトーン方面です。
ここでバーンブアトーン行きの同じバス会社のバスに乗り換えます。
ほどなくやってきたバスに飛び乗り、バーンクルアイ・サイノーイ通りを一路北へ。
多分ラッタナーティベート通りを越えた辺りからだと思うんですが、
急に綺麗に整備された道になり、景色が一変しました。
地図と車窓の景色とを見比べつつ、目的地で下車。
ここ、バーンブアトーン市役所です。
な、なぜ!? って思いますよね。私も同感です(笑)
実は、ここバーンブアトーン郡には終戦直後、日本人が抑留されていた
「バーンブアトーン収容所」(カーイ・ピタック・バーンブアトーン)があったのです。
その跡地を見たいと思ったものの、場所が特定できません。
なので市役所で尋ねようと思ったのですが、収容所が60年前とは言え市内にあったとは
思えませんし、ヘタレな私は土壇場で尋ねる勇気もなく・・・(汗)
在京タイ王国大使館のバーンブアトーン収容所に関するページによると、
現在では収容所の痕跡は皆無だそうです。
まぁ、それも行くのを断念した理由の一つなのですが。
ただこちらのタイ人の方のブログによると、地元住民が
「バーン・カーイ2」(第2キャンプ)、「バーン・カーイ3」(第3キャンプ)
と呼ぶ地名として残っているんだとか。
でも地元の方もなぜそう呼ぶのかは、今や知る人はほとんどいないそうです。
あと、どこかで見つけたのですが、「クローン・カーイ2」(第2キャンプ運河)
という名の運河があるらしいです。地図を目を皿のようにして調べたのですが、
小さな運河らしく載っていませんでした。
バーンブアトーン収容所には、抑留日本人3,603人中の大部分にあたる、
3,449人(外交関係者および一般文民)が抑留されていたのだそうです。
残留を希望しない3,020人は、1946年6月16日に船でバンコクを発ち、
残留希望者のうち連合軍(英軍)に許可された146名が解放されたのは、
同年9月26日だったとのことです。
恐らく収容所があったのは、もっとずっと北西の方だと思います。
そこまでは時間的にも無理でした。でもバーンブアトーンに来られただけで
正直、私は満足なのです。
さて、こんなところで降りてしまって、これからどうするんだ!?
<交通費>
ノンタブリー行きバス:6バーツ
バーンブアトーン行きバス:8バーツ
ここまでの合計:55バーツ
※旅は2008年4月28日(月)に行いました。
元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)
つづく・・・
【参考文献】
村嶋英治「日タイ関係 1945-1952年, -在タイ日本人及び在タイ日本資産の
戦後処理を中心に-」早稲田大学アジア太平洋研究センター『アジア太平洋討究』
創刊号、早稲田大学アジア太平洋研究センター図書・編集委員会、2000年