まだまだ歩き続けますよ~。
綺麗に整備された道をひたすら西へ。
8分ほどするとお寺の前に到着しました。
ワット・ドーントゥーム。
ここだここだ!
時刻は、10:04。
ノーンプラードゥック駅から39分歩いたのか~。
我ながら炎天下に無茶やってます(笑)
中に入ってみましょう!
ワット・ドーン・トゥームの敷地内には学校も併設されていて、
緑の芝が綺麗な校庭が左手に広がっています。
実は、かつてこの校庭とワット・ドーントゥーム周辺には、
泰緬鉄道建設用に日本軍兵舎と捕虜収容所が建っていたんです。
合わせて13棟が建ち並んでいたようで。
1942年6月23日には、マレー半島から鉄道で運ばれてきた
連合国軍捕虜第一陣700名がバーンポーン駅に到着し、
ワット・ドーントゥーム周辺の施設に移されています。
その後どんどん鉄道で到着し、6月30日時点では3,175名だったと
タイ側資料に残されているとか。
最終的に泰緬鉄道建設に送り込まれた連合国軍捕虜の数は6万人余りに
のぼったんですけどね。
そんな中の同年12月18日、ある事件がまさにこのワット・ドーントゥームで起きました。
資料によりディテールが微妙に違うので、おおまかな流れを解説しておきます。
夕方5時頃、ナコーンパトムからワット・ドーントゥーム住職を訪ねてきた
37歳の沙弥(見習い僧)が道端で白人捕虜からタバコをくれるように頼まれます。
沙弥が応じてタバコを捕虜に渡したところ、目撃した日本兵が沙弥の顔面を3発殴り
沙弥は地面に倒れてしまいました。
ワット・ドーントゥームの住職は不在でしたが、寺の講堂に寝泊まりしている
日本軍に雇われたタイ人労働者たちに経緯を話したところ、労働者20名とともに
日本人通訳の元へ抗議に行くことに。
日本人通訳は上官には明日連絡するから今晩はひとまず戻るようにと伝えます。
講堂に戻ると、どうしたことか夜7時過ぎに日本兵がやって来て、
労働者が逃げ惑う中発砲したのです。
タイ人労働者側もスコップやクワで応戦し、双方に死傷者が出る事態に。
日本軍上官とバーンポーン警察署長、郡長が駆けつけてようやく沈静化しました。
しかしです。夜中になって日本軍はバーンポーン警察署に押しかけ、
双方で銃撃戦になります。日本軍は機関銃の掃射までしたんだとか。
これでまた双方に死傷者が出てしまいます。
この事件、そもそもは日本兵が沙弥を殴ったことが発端です。
見習いとはいえ「僧」に手を上げた行為が敬虔な仏教徒の多いタイ人には
仏教への冒涜と映ってしまいました。
さらに顔へのビンタや殴打は、当時の日本とくに軍隊内では日常茶飯事に
行われていたようですが、タイでは顔を殴るなど侮辱もいいところ。
そんな文化への不理解が発端となり、最終的には日タイの外交問題にまで
発展する事件となってしまいました。43年7月の東条英機首相訪タイ時にも
ピブーン首相との間でこの件も話し合われたことでしょう。
タイの軍事裁判でこの沙弥には死刑求刑に対して終身刑の判決が出される結果に。
日本側はタイ側に賠償金を支払わせますが、そのままそっくり寄付として
タイへ戻されることで決着が付けられました。お互いの顔を立てたかたちですね。
その後、タイ駐留日本軍内ではタイの文化・習慣へ理解を深めるための
小冊子が配布されたそうです…。
そんな事件の舞台になったとは信じられないほど
今のワット・ドーントゥームは静寂そのもの。
実は日本軍がいたことを記した碑か何かがあるんじゃないかと思い
境内を探してみたのですが、結局見つからず終いでした。
が、しかし!
帰国後に珍しく日本語でも情報を探していて、
「バンポンの日本人慰霊碑と日本軍の遺品を探して・・・(タイ)」なるサイトを
発見したのですが、それによると日本人慰霊碑が境内に建っているとか!
1991年に建てられた新しい碑らしいですが。
言われてみると確かにこの碑を見かけたんですよ。
私はてっきりお墓かと思って、気味悪がって避けて歩いたんですが…。
この写真では分かりにくいですが、
本堂の右脇、木の奥に灰色の慰霊碑が確かに建っていました。
さらに、です。併設の学校図書館には、日本軍のヘルメットが保管されているそうで!
知っていればダメモトで見学できないか交渉したものを。
またしても私の詰めの甘さが出てしまいました -_-;)
この時はそんなことなどつゆ知らず、私はワット・ドーントゥームを後にしました。
ワット・ドーントゥームを出たところでバーンポーン行きソンテオを待ちます。
すると、ものの3,4分でやって来ました。なんとラッキー!
乗り込みます。
時刻は、10:15。
お客さんは3,4人で女性ばかり…。
しばらく走ったところで線路を渡りました。
今のが西線(ナムトック線)ですね。
この路線ですがタイ語のサイトを見る限りでは「西線」が正式名称っぽいですね。
「ナムトック線」は愛称なのかな?
線路を渡ってから道なりに左にカーブしたソンテオは
やや賑やかな町並みのところで停車。どうやら終点みたいです。
下車して運転手さんに運賃10バーツを支払い。
時刻は、10:20。
なんとなく道路を反対側に渡って、バーンポーンの町の中心方向を眺めます。
左手前方に乗ってきたソンテオが停まってますね。
もっと前方の中央には、町のシンボルになっている時計塔が聳えているのが見えます。
あそこまで歩いて行きましょう!
<交通費>
歩いただけなので:10バーツ
ここまでの合計:53.5バーツ
※旅は2013年4月30日(火)に行いました。
元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)
つづく
<参考>
『泰緬鉄道-機密文書が明かすアジア太平洋戦争-』吉川利治著、同文舘、1994年
『父が語ったバーンポーン』(タイ語)
「バーンポーン警察と日本軍の抗争」『ラーチャブリー研究』(タイ語)
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綺麗に整備された道をひたすら西へ。
8分ほどするとお寺の前に到着しました。
ワット・ドーントゥーム。
ここだここだ!
時刻は、10:04。
ノーンプラードゥック駅から39分歩いたのか~。
我ながら炎天下に無茶やってます(笑)
中に入ってみましょう!
ワット・ドーン・トゥームの敷地内には学校も併設されていて、
緑の芝が綺麗な校庭が左手に広がっています。
実は、かつてこの校庭とワット・ドーントゥーム周辺には、
泰緬鉄道建設用に日本軍兵舎と捕虜収容所が建っていたんです。
合わせて13棟が建ち並んでいたようで。
1942年6月23日には、マレー半島から鉄道で運ばれてきた
連合国軍捕虜第一陣700名がバーンポーン駅に到着し、
ワット・ドーントゥーム周辺の施設に移されています。
その後どんどん鉄道で到着し、6月30日時点では3,175名だったと
タイ側資料に残されているとか。
最終的に泰緬鉄道建設に送り込まれた連合国軍捕虜の数は6万人余りに
のぼったんですけどね。
そんな中の同年12月18日、ある事件がまさにこのワット・ドーントゥームで起きました。
資料によりディテールが微妙に違うので、おおまかな流れを解説しておきます。
夕方5時頃、ナコーンパトムからワット・ドーントゥーム住職を訪ねてきた
37歳の沙弥(見習い僧)が道端で白人捕虜からタバコをくれるように頼まれます。
沙弥が応じてタバコを捕虜に渡したところ、目撃した日本兵が沙弥の顔面を3発殴り
沙弥は地面に倒れてしまいました。
ワット・ドーントゥームの住職は不在でしたが、寺の講堂に寝泊まりしている
日本軍に雇われたタイ人労働者たちに経緯を話したところ、労働者20名とともに
日本人通訳の元へ抗議に行くことに。
日本人通訳は上官には明日連絡するから今晩はひとまず戻るようにと伝えます。
講堂に戻ると、どうしたことか夜7時過ぎに日本兵がやって来て、
労働者が逃げ惑う中発砲したのです。
タイ人労働者側もスコップやクワで応戦し、双方に死傷者が出る事態に。
日本軍上官とバーンポーン警察署長、郡長が駆けつけてようやく沈静化しました。
しかしです。夜中になって日本軍はバーンポーン警察署に押しかけ、
双方で銃撃戦になります。日本軍は機関銃の掃射までしたんだとか。
これでまた双方に死傷者が出てしまいます。
この事件、そもそもは日本兵が沙弥を殴ったことが発端です。
見習いとはいえ「僧」に手を上げた行為が敬虔な仏教徒の多いタイ人には
仏教への冒涜と映ってしまいました。
さらに顔へのビンタや殴打は、当時の日本とくに軍隊内では日常茶飯事に
行われていたようですが、タイでは顔を殴るなど侮辱もいいところ。
そんな文化への不理解が発端となり、最終的には日タイの外交問題にまで
発展する事件となってしまいました。43年7月の東条英機首相訪タイ時にも
ピブーン首相との間でこの件も話し合われたことでしょう。
タイの軍事裁判でこの沙弥には死刑求刑に対して終身刑の判決が出される結果に。
日本側はタイ側に賠償金を支払わせますが、そのままそっくり寄付として
タイへ戻されることで決着が付けられました。お互いの顔を立てたかたちですね。
その後、タイ駐留日本軍内ではタイの文化・習慣へ理解を深めるための
小冊子が配布されたそうです…。
そんな事件の舞台になったとは信じられないほど
今のワット・ドーントゥームは静寂そのもの。
実は日本軍がいたことを記した碑か何かがあるんじゃないかと思い
境内を探してみたのですが、結局見つからず終いでした。
が、しかし!
帰国後に珍しく日本語でも情報を探していて、
「バンポンの日本人慰霊碑と日本軍の遺品を探して・・・(タイ)」なるサイトを
発見したのですが、それによると日本人慰霊碑が境内に建っているとか!
1991年に建てられた新しい碑らしいですが。
言われてみると確かにこの碑を見かけたんですよ。
私はてっきりお墓かと思って、気味悪がって避けて歩いたんですが…。
この写真では分かりにくいですが、
本堂の右脇、木の奥に灰色の慰霊碑が確かに建っていました。
さらに、です。併設の学校図書館には、日本軍のヘルメットが保管されているそうで!
知っていればダメモトで見学できないか交渉したものを。
またしても私の詰めの甘さが出てしまいました -_-;)
この時はそんなことなどつゆ知らず、私はワット・ドーントゥームを後にしました。
ワット・ドーントゥームを出たところでバーンポーン行きソンテオを待ちます。
すると、ものの3,4分でやって来ました。なんとラッキー!
乗り込みます。
時刻は、10:15。
お客さんは3,4人で女性ばかり…。
しばらく走ったところで線路を渡りました。
今のが西線(ナムトック線)ですね。
この路線ですがタイ語のサイトを見る限りでは「西線」が正式名称っぽいですね。
「ナムトック線」は愛称なのかな?
線路を渡ってから道なりに左にカーブしたソンテオは
やや賑やかな町並みのところで停車。どうやら終点みたいです。
下車して運転手さんに運賃10バーツを支払い。
時刻は、10:20。
なんとなく道路を反対側に渡って、バーンポーンの町の中心方向を眺めます。
左手前方に乗ってきたソンテオが停まってますね。
もっと前方の中央には、町のシンボルになっている時計塔が聳えているのが見えます。
あそこまで歩いて行きましょう!
<交通費>
歩いただけなので:10バーツ
ここまでの合計:53.5バーツ
※旅は2013年4月30日(火)に行いました。
元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)
つづく
<参考>
『泰緬鉄道-機密文書が明かすアジア太平洋戦争-』吉川利治著、同文舘、1994年
『父が語ったバーンポーン』(タイ語)
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