市場の路地から広い通りに出てみると、
白い城壁らしきものが続いているではないですか。
まるで王宮みたいですね。
ん、もしやナーラーイ王が造営したとか?
事前に下調べしていないとこんなもんです ^_^;)
ここが入口のようで。
SOMDET PHRA NARAI NATIONAL MUSEUM とあるので、
プラプラーン・サームヨート係員オススメのミュージアムとは、
ここのことっぽいですね。入ってみましょう。
右手の受付で拝観料を支払います。
タイ人10バーツ、外国人30バーツ…。
観光地は仕方ないですね ^_^;)
入口そばに立つ案内板を読むと…
アユタヤ王朝第27代のナーラーイ王(在位1656-88年)が
フランス&イタリア人技師に共同でロッブリーに王宮を造営させ
1666年に完成したとあります。
それがここなんですね。
ナーラーイ王の死後、荒廃した王宮を1856年にラマ4世が修復し、
「プラナーラーイ・ラーチャニウェート」(พระนารายณ์ราชนิเวศน์ )と
名付けたんだとか。
ラーチャニウェートとは都以外の地の宮殿のこと。
なのでプラナーラーイ宮殿ってなところでしょう。
貯水池や倉庫の跡を左に見ながら、真っ直ぐ整備された歩道を歩いていくと、
もう一つの門が。
その奥に見える仏堂風の建物内からまずは見学するようです。
サンダルを脱いで階段を上がると目に入ったのは、
ナーラーイ王の像でした。
アユタヤ王朝の中でもとくに外国との貿易に力を入れた
ナーラーイ王時代にちなみ、この館内には王治世の
外国との関係についての展示がなされているようで。
例えばこれは、フランスのルイ14世使節がアユタヤでナーラーイ王に
謁見した際の絵。当時のフランス人による線描画を元に描き直したものだとか。
逆にナーラーイ王もフランスに使節を派遣しています。
なんでもオランダ東インド会社が貿易を独占しようと、
チャオプラヤー川河口を封鎖して脅しにかかった事件があったそうな。
結局オランダの企みは失敗。でもオランダの報復を危惧したナーラーイ王は
フランスに近付いたということなんだそうです。
ロッブリーに副都を築いたのも、有事の際に都の機能を移すためという
理由もあったようで。
さて、外国との関係と言えば、我が日本も。
これは、ナーラーイ王治世の1681年にアユタヤのワット・ヨム壁画に描かれた
日本人義勇軍の姿。原画は1893年に保存のために剥がされたものの、
その甲斐空しくのちに完全に崩れてしまい現存せず。
山田長政没後51年経っていますが、日本人はまだアユタヤの国政で
ある程度の役割を担っていたと、この絵の解説にありました。
ナーラーイ王即位に際して争いがあったのですが、動員された
外国人部隊のうち日本人はペルシャ人に次ぐ規模の人数だったとか。
中央に掲げられた日の丸に身が引きしまる思いです。
ナーラーイ王治世で日本人以外の外国人も国政に重用されました。
その中で、もっとも有名なのがギリシャ人のフォールコンです。
ジャワのイギリス東インド会社で働いたのち、アユタヤの大蔵省商品大蔵局で
職を得ます。そこは貿易を担う部署。有能だったことからナーラーイ王の寵愛を
受け、見る見るうちに大蔵省の長に出世。
大きな権力を背景に親仏政策を取ったことから
旧勢力の中国人商人達から妬まれ、
ナーラーイ王が晩年臥している機に乗じ、
アユタヤをフランスに売る売国奴として処刑されてしまいました。
1687年、40歳の若さででした。
ちなみにフランス使節のナーラーイ王謁見の絵で、
左下にひれ伏しているのが、フォールコンです。
驚いたことに、ここにはそのフォールコンの遺品が展示されていたんですよ。
フォールコン居館跡で見つかった什器との説明です。
私はフォールコンは知っていたので、
遺品を期せずして見ることができ、思わず感動。
フォールコンの妻がまた興味深いんです。Marie Guimarという名
(タイ名はターオ・トーンキープマー ท้าวทองกีบม้า)なんですが、
なんと日本人・ベンガル人・ポルトガル人混血の人物でした。
タイ・スイーツのフォイトーンやトーンヨートは、
フォールコン死後、彼女がアユタヤ宮廷に作り方を伝えたものなのです。
フォイトーンは、日本の鶏卵素麺(けいらんそうめん)に瓜二つ。
平戸出身日本人である祖父から教わったのかもしれませんね。
と言うのも、福岡の元祖鶏卵素麺松屋さんも、
「初代当主、松屋利右衛門は長崎の出島を訪れた際、
鶏卵素麺の製法を伝授されたと言われて」いるとのことなのです。
17世紀後半と長崎という共通点。2つの繋がりが濃厚です。
なんだかロッブリーの旅というより歴史の旅ですね、今回は(笑)
さらに進むと、あっ、この帽子!
入口像もフランス使節謁見の絵もそうですが、
ナーラーイ王は決まってこの帽子を被っているので気になってたんですよ。
ナーラーイ王期に官僚が被ったもので、プロシアの帽子デザインの
影響を受けたと推定されているとのこと。
帽子の縁の装飾によって階位が分かるようになっていたそうです。
ひととおり見て、次は隣の2階建ての建物に移ります。
1階は、アユタヤ時代より前のドヴァーラヴァティー時代や
クメール時代(ロッブリー時代とも言います)の出土品の展示。
いつの間にやら猫ちゃんがまとわりついて離れません(笑)
これは7~8世紀に南インドのパッラヴァ・グランタ文字で刻まれた
パーリ語碑文だとか。うーん、読めたら面白いだろうなー。
仏像や碑文の出土品が無造作に展示されているのを眺めつつ、
次は2階へ。王宮を修復したラマ4世ゆかりの品の展示スペースでした。
そしてさらに隣にはこんな遺跡が。
ナーラーイ王滞在時に、外国使節の謁見に使用していた建物だとか。
これでひととおり見学し終えたはず。
確かにここは見ごたえがありました。
歴史好きの人だったら楽しめること間違いなしです。
1688年にナーラーイ王が崩御した地でもあるプラナーラーイ宮殿を
そろそろ後にするとしますか。
時刻は、12:05。1時間10分もいたんですね。
入口へ向かって戻ります。
次は商店街でも歩いてみるかな。
<旅費交通費>
歩いただけなので:0バーツ
ここまでの合計:50バーツ
※旅は2014年6月19日(木)に行いました。
<参考>
「パイパイマーマー(31) 港市国家アユッタヤーはだれが支えたのか?-「外来人国家」-」,赤木攻,『タイ国情報』2010年7月号,日本タイ協会,2010年
Wikipedia "พิพิธภัณฑสถานแห่งชาติ สมเด็จพระนารายณ์"
ウィキペディア "ターオ・トーンキープマー"
元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)
つづく
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白い城壁らしきものが続いているではないですか。
まるで王宮みたいですね。
ん、もしやナーラーイ王が造営したとか?
事前に下調べしていないとこんなもんです ^_^;)
ここが入口のようで。
SOMDET PHRA NARAI NATIONAL MUSEUM とあるので、
プラプラーン・サームヨート係員オススメのミュージアムとは、
ここのことっぽいですね。入ってみましょう。
右手の受付で拝観料を支払います。
タイ人10バーツ、外国人30バーツ…。
観光地は仕方ないですね ^_^;)
入口そばに立つ案内板を読むと…
アユタヤ王朝第27代のナーラーイ王(在位1656-88年)が
フランス&イタリア人技師に共同でロッブリーに王宮を造営させ
1666年に完成したとあります。
それがここなんですね。
ナーラーイ王の死後、荒廃した王宮を1856年にラマ4世が修復し、
「プラナーラーイ・ラーチャニウェート」(พระนารายณ์ราชนิเวศน์ )と
名付けたんだとか。
ラーチャニウェートとは都以外の地の宮殿のこと。
なのでプラナーラーイ宮殿ってなところでしょう。
貯水池や倉庫の跡を左に見ながら、真っ直ぐ整備された歩道を歩いていくと、
もう一つの門が。
その奥に見える仏堂風の建物内からまずは見学するようです。
サンダルを脱いで階段を上がると目に入ったのは、
ナーラーイ王の像でした。
アユタヤ王朝の中でもとくに外国との貿易に力を入れた
ナーラーイ王時代にちなみ、この館内には王治世の
外国との関係についての展示がなされているようで。
例えばこれは、フランスのルイ14世使節がアユタヤでナーラーイ王に
謁見した際の絵。当時のフランス人による線描画を元に描き直したものだとか。
逆にナーラーイ王もフランスに使節を派遣しています。
なんでもオランダ東インド会社が貿易を独占しようと、
チャオプラヤー川河口を封鎖して脅しにかかった事件があったそうな。
結局オランダの企みは失敗。でもオランダの報復を危惧したナーラーイ王は
フランスに近付いたということなんだそうです。
ロッブリーに副都を築いたのも、有事の際に都の機能を移すためという
理由もあったようで。
さて、外国との関係と言えば、我が日本も。
これは、ナーラーイ王治世の1681年にアユタヤのワット・ヨム壁画に描かれた
日本人義勇軍の姿。原画は1893年に保存のために剥がされたものの、
その甲斐空しくのちに完全に崩れてしまい現存せず。
山田長政没後51年経っていますが、日本人はまだアユタヤの国政で
ある程度の役割を担っていたと、この絵の解説にありました。
ナーラーイ王即位に際して争いがあったのですが、動員された
外国人部隊のうち日本人はペルシャ人に次ぐ規模の人数だったとか。
中央に掲げられた日の丸に身が引きしまる思いです。
ナーラーイ王治世で日本人以外の外国人も国政に重用されました。
その中で、もっとも有名なのがギリシャ人のフォールコンです。
ジャワのイギリス東インド会社で働いたのち、アユタヤの大蔵省商品大蔵局で
職を得ます。そこは貿易を担う部署。有能だったことからナーラーイ王の寵愛を
受け、見る見るうちに大蔵省の長に出世。
大きな権力を背景に親仏政策を取ったことから
旧勢力の中国人商人達から妬まれ、
ナーラーイ王が晩年臥している機に乗じ、
アユタヤをフランスに売る売国奴として処刑されてしまいました。
1687年、40歳の若さででした。
ちなみにフランス使節のナーラーイ王謁見の絵で、
左下にひれ伏しているのが、フォールコンです。
驚いたことに、ここにはそのフォールコンの遺品が展示されていたんですよ。
フォールコン居館跡で見つかった什器との説明です。
私はフォールコンは知っていたので、
遺品を期せずして見ることができ、思わず感動。
フォールコンの妻がまた興味深いんです。Marie Guimarという名
(タイ名はターオ・トーンキープマー ท้าวทองกีบม้า)なんですが、
なんと日本人・ベンガル人・ポルトガル人混血の人物でした。
タイ・スイーツのフォイトーンやトーンヨートは、
フォールコン死後、彼女がアユタヤ宮廷に作り方を伝えたものなのです。
フォイトーンは、日本の鶏卵素麺(けいらんそうめん)に瓜二つ。
平戸出身日本人である祖父から教わったのかもしれませんね。
と言うのも、福岡の元祖鶏卵素麺松屋さんも、
「初代当主、松屋利右衛門は長崎の出島を訪れた際、
鶏卵素麺の製法を伝授されたと言われて」いるとのことなのです。
17世紀後半と長崎という共通点。2つの繋がりが濃厚です。
なんだかロッブリーの旅というより歴史の旅ですね、今回は(笑)
さらに進むと、あっ、この帽子!
入口像もフランス使節謁見の絵もそうですが、
ナーラーイ王は決まってこの帽子を被っているので気になってたんですよ。
ナーラーイ王期に官僚が被ったもので、プロシアの帽子デザインの
影響を受けたと推定されているとのこと。
帽子の縁の装飾によって階位が分かるようになっていたそうです。
ひととおり見て、次は隣の2階建ての建物に移ります。
1階は、アユタヤ時代より前のドヴァーラヴァティー時代や
クメール時代(ロッブリー時代とも言います)の出土品の展示。
いつの間にやら猫ちゃんがまとわりついて離れません(笑)
これは7~8世紀に南インドのパッラヴァ・グランタ文字で刻まれた
パーリ語碑文だとか。うーん、読めたら面白いだろうなー。
仏像や碑文の出土品が無造作に展示されているのを眺めつつ、
次は2階へ。王宮を修復したラマ4世ゆかりの品の展示スペースでした。
そしてさらに隣にはこんな遺跡が。
ナーラーイ王滞在時に、外国使節の謁見に使用していた建物だとか。
これでひととおり見学し終えたはず。
確かにここは見ごたえがありました。
歴史好きの人だったら楽しめること間違いなしです。
1688年にナーラーイ王が崩御した地でもあるプラナーラーイ宮殿を
そろそろ後にするとしますか。
時刻は、12:05。1時間10分もいたんですね。
入口へ向かって戻ります。
次は商店街でも歩いてみるかな。
<旅費交通費>
歩いただけなので:0バーツ
ここまでの合計:50バーツ
※旅は2014年6月19日(木)に行いました。
<参考>
「パイパイマーマー(31) 港市国家アユッタヤーはだれが支えたのか?-「外来人国家」-」,赤木攻,『タイ国情報』2010年7月号,日本タイ協会,2010年
Wikipedia "พิพิธภัณฑสถานแห่งชาติ สมเด็จพระนารายณ์"
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元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)
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