タイ~バンコク周辺バス日帰り旅~

タイ・バンコクや近県をバス、ソンテオなどの公共交通機関だけで日帰り旅をした様子を綴る旅行記です。
タイ料理屋台から水上マーケット、百年市場、日本の残した足跡まで無鉄砲に飛び回っています。 ※楽天ブログ『タイとタイ語に魅せられて』の1日旅の記事だけを抜粋しました。

スックター橋

スックター橋 71年前の足跡を訪ねて[7]

さぁ、いよいよスックター橋へ!


07_01


送迎カートがのんびりと往来しています。
少し橋上を歩いて行くと、


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海の上に出ました!
海に向けて真っ直ぐ突き出た橋なんですね。


ここバンプー保養地は1939年オープン。結構な歴史があります。
なんでもその2年前、ピブーン首相がサタヒープ港視察の折りにこの地を通った際、
バンコクからほど近い上に海に面して雰囲気が良いと感じたことから、内務省に
この地に市民向けの保養地を設けるよう命じたことが始まりなんだとか。

しかしオープン2年後には、ここに日本軍が上陸。
終戦まで日本軍がここを接収している間、保養地としては閉鎖されていたそうで。


まさにこの橋に日本軍が上陸したんですね。感慨深いです。

そうそう、タイ側の資料と突き合わせたところ、前回の日記中の上陸等の時間が
間違っている可能性が高いことが判明したため、修正しました。
参考資料の時刻表記を日本時間だと思ったのですが、
どうやらタイ時間だったようです。すみません。


したがって上陸時間は、12月8日の3~4時の間です。
敷地内宿舎で就寝中だったバンプー保養地所長は、未明に裏のスクンビット通りを
走るトラックの音で目覚めました。恐らく日本人「別働隊」が用意した車でしょう。

そして04:30、一人の職員が所長の元へやって来ます。
日本軍が橋先端にある休憩室にいた職員全員を拘束し、
海岸付近の道に日本軍兵士が溢れていると知らされました。

急いで電話をしようとしたものの繋がりません。
「別働隊」が道すがら電話線を切断する手はずになっていたので、
そのせいで繋がらなかったのでしょう。

それでチャルーンクルン-バンプー線のバス運転手に命じて地方警察へ報告に行かせ、
警察隊がそのバスに乗り込んで現地に急行したところで
バンコクへ向けて進軍中の日本軍と遭遇、対峙することになったのです。

タイ側のスウィット・エーカシン警察少尉は、即座に日本軍と交渉する決心を決めます。
時刻は06:00。

その際の写真がここにあります。

まだ暗い時間だったことが分かりますね。
後列左から2人目が、タイ側のスウィット警察少尉。
多勢に無勢の状況できっと決死の覚悟で臨んだことでしょう。


日本軍チュムポーン上陸は、『ユワチョン・タハーン』(少年義勇兵)で
映画化されていますが、ここバンプー上陸の話も映画化できそうなくらい
十分に劇的です。


上陸部隊メインの近衛歩兵第4聯隊第3大隊(隊長は吉田勝中佐)のその後はというと、
近衛歩兵第4聯隊に合流して競馬場(BTSラチャダムリ駅前の?)に駐屯した後、
12月11日にマレー作戦参加のために鉄道で南タイのヤラーへ向かいます。

翌42年1月1日には英領マラヤ(マレーシア)のイポーから船でキンタ川を下り、
2日未明、トゥルッ・アンソン(現トゥルッ・インタン)にまたしても奇襲上陸して
占領に成功。

2月9~10日にはジョホール水道を渡河してシンガポールに進攻し、
15日の英軍降伏を迎えています。


さてさて、話を現代に戻しましょう。
このスックター橋から西側を眺めてみます。


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右遠方にタンカーが見えますね。
でもチャオプラヤー川河口西岸のポム・プラジュンまでは見えず。
期待していたのにちょっとガッカリ。


一方、東側はというと、


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海岸に沿って竹柵が延々と続いています。
ここでも海岸浸食の被害が深刻なようですね。


ところで、頭上を頻繁に飛び交うものあり。
正体は…


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カモメ~。


ここはカモメも売りにしているらしく、カモメの餌売りもいれば、
カモメにも実は色んな種類がいるんです、ってことを説明した案内板まで
設置されてたりもします。

目と鼻の先を飛んでいくんで、写真好きの人には面白い写真が撮れて楽しいかも~。


橋の先端まであと少しです!





<交通費>
歩いただけなので:0バーツ
ここまでの合計:74バーツ

※旅は2012年12月28日(金)に行いました。

<参考>
『マレー進攻作戦』防衛庁防衛研究所戦史室、朝雲新聞社、1966年
バンプー保養地ウェブサイト(タイ語)
ReurnThaiWichakan.com(タイ語)

元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)

つづく


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太平洋戦争歴史記念碑とは 71年前の足跡を訪ねて[6]

バンプー保養地(サターン・タークアーカート・バンプー)の入口から
とぼとぼ歩いて行くと、正面に記念碑が見えてきました。

今回の旅の目的は、実はコレを見ることなんです。


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こちら側は英語表記です。
反対側に回ると・・・


06_02


やっぱりタイ語表記!
どちらかと言うと得意なこちらを翻訳してみます。



太平洋戦争歴史記念碑

 ここスックター橋において、1941年12月8日未明、大日本帝国軍のおよそ1大隊が
上陸した。同時にプラジュアップキリカン、チュムポン、ナコンシータマラート、
ソンクラー、パッタニー各県にも上陸し、また陸上部隊がアランヤプラテート方面から
進入した。

 タイ側部隊は、地方警察1小隊、少年義勇兵、サムットプラーカーン県からの住民で
構成され、この地点の北西約2kmで道路を封鎖した。双方がまだ交戦をしないうちに
タイ政府と日本政府の間で大日本帝国軍のタイ国内通過を認める合意が成立した。

 サムットプラーカーン県全集落の住民が一致団結して、勇敢に、身と命を捧げて
国家の独立を守ったことは明らかである。よって模範として称賛し、全タイ国民に
語り継いでいくべきである。




真珠湾攻撃と同日の1941年12月8日(月)未明、
日本軍は、まさにこの先の海に突き出た橋に上陸したのです。

上陸した部隊は、陸軍第15軍に配属の近衛師団近衛歩兵第4聯隊第3大隊を
基幹とする部隊(吉田支隊)。

吉田支隊は、12月3日にサイゴンから白馬山丸(三井の商船?)に乗船し、
ベトナムのフーコック島付近で3日間待機の後、7日に出発。

8日の午前3~4時の間にタイ側から抵抗を受けることなく
この先のスックター橋に上陸しました。

同部隊の任務は、上陸後すみやかにバンコクへ移動し、
チャオプラヤー川に架かる国鉄南線の鉄道橋、ラマ6世橋を占領すること。


同部隊を誘導するために、在タイの「軍人を中心とする屈強なもの」が別働隊を組織し、
7日夜に納涼と称してこのバンプー海岸へ赴く手はずになっていました。

で、別働隊と同部隊は合流したものの、上記記念碑の文面のとおり、
タイ側とにらみ合いこう着状態に。
タイ側とは極力戦火を交えず平和裏に駐留する方針だったからでしょう。


実はこの風雲急を告げる事態の際に、タイのピブーン首相はバンコクに不在で
連絡が取れない状態でした。カンボジア国境付近から車を飛ばして帰って来た
ピブーン首相との間で協議が開始したのは朝7時半。

ピブーン首相の態度が判明(のち、午後3時頃に日本軍通過協定正式調印)したのを
受けてようやく吉田支隊は自動車で前進し、13:40頃バンコクに到着しました。


なお、フランス領インドシナ(カンボジア)に駐留していた近衛師団も先遣隊が
8日朝にタイへ陸上から侵入開始、9日未明にドンムアン飛行場に到着した後、
ルンピニー公園へ前進。
主力も9日午後バンコクに入り、ルンピニー公園で合流。その後
チュラロンコン大学に司令部を設けたようです。


…という驚くべき歴史の一場面が71年余り前、この場所で起きたんですね。
暑いにもかかわらず、思わず身震いしてしまいました。


さらに歩を進めます。


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門のような建物が。
プミポン国王の大きな写真の下には「スックター橋」と書かれています。

この先が、その、日本軍が上陸した橋ですね。
いざ!






<交通費>
歩いただけなので:0バーツ
ここまでの合計:74バーツ

※旅は2012年12月28日(金)に行いました。
※時刻を修正しました。(2013年3月11日)

<参考>『マレー進攻作戦』防衛庁防衛研究所戦史室、朝雲新聞社、1966年

元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)

つづく


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