タイ~バンコク周辺バス日帰り旅~

タイ・バンコクや近県をバス、ソンテオなどの公共交通機関だけで日帰り旅をした様子を綴る旅行記です。
タイ料理屋台から水上マーケット、百年市場、日本の残した足跡まで無鉄砲に飛び回っています。 ※楽天ブログ『タイとタイ語に魅せられて』の1日旅の記事だけを抜粋しました。

見どころ満載アユタヤ遺跡の東端<2013年>

なかなか本格的!アヨタヤ水上マーケット 見どころ満載アユタヤ遺跡の東端[6]

路地を奥へと進んだ右側に…、ありました~!


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昔の城壁を模した壁にはタイ文字で「アヨタヤ水上マーケット」と書かれています。
こんなところにあったのか~。

駐車場に沿って入口へと歩いていると、


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トゥクトゥクを使った移動式カフェが。
カワイイですね。これ日本でやったら人目を引くかも~。

その先に大声で中国語を話す集団が溜まっている一角が。
なんだろうと思ったら、遊覧船乗り場でした。
乗って面白いんだろうか? などと言っちゃぁいけませんな ^_^;)

アユタヤも中国人観光客が多いですね。
でも北京語っぽくないから香港か上海かからかなぁ。


その先からようやくマーケットが出現。


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結構広そう。
案内地図を見ると、大きな池の周囲にぐるっと店が並んでいるようです。
あの遊覧船はその池を一周するってことか。


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おっ、ここにもありましたよ、ご当地Tシャツ!
「アヨタヤ」とタイ文字で書かれていますね。

ちなみにアヨタヤとはアユタヤが王国になる前の古名。

ここの正式名称はアヨタヤ水上マーケットなんですが、
どうもタイ人には「アユタヤ水上マーケット」と言わないと通じないことが多いです。
戦勝記念塔からのロッ・トゥーの運転士も日本人村の守衛さんもそうでした。

そんなアヨタヤ水上マーケットは2010年にオープンしたばかりの新しい観光スポット。

…なんですが、翌11年にはあの大洪水でここも冠水して営業休止に。
グーグル・マップの航空写真は、ちょうど当時の写真のようで、
一帯の多くが冠水しているのがわかります。
洪水が引いた後、同年12月25日から営業を再開したんだそうで。


さてさて、先へと歩くことにしましょう。


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木材を多用して百年市場や古い水上マーケットの雰囲気を実にうまく再現しています。
来るまではどうせ観光客向けのなんちゃって水上マーケットだろうとタカをくくって
いたのですが、そんな予想を良い意味で完璧に裏切ってくれました。

凄いじゃないか、アヨタヤ水上マーケット


すると、右側からまたしてもにぎやかな中国語が聞こえてきました。


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あ、遊覧船ね。
こんなに離れていてもしっかり聞こえてくるとは、恐るべし…。


売られているもののラインナップは、アンパワー水上マーケットにあるような
ファンシーグッズから、昔ながらの百年市場に並んでいるタイ・スイーツまで実に豊富。
私でも楽しめるほど。

あれ?


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「カラバオ」って・・・(笑)

買おうかしばし悩みましたが、私のカラーじゃないなと思いとどまりました ^_^;)
その代わり近くの店で、海軍の水兵さんの人形を購入。199バーツ也。


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結構広いんですよね~。


おっ、やはりありました!


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アユタヤ名物ローティー・サイマイ
ローティーを練っているところを実演しているではないですか。

以前の日記でローティー・サーイマイの誕生秘話(?)を書きましたが、
実際にアユタヤで売られているのを見るのはこれが初めて。
なんだか感慨深いものがあります ^_^;)


この後、池の真ん中にある食事スペースでジャンボ・ルークチンにて軽い食事。
巨大なつみれとでも形容したらいいのでしょうか。
写真を撮ったのに、私としたことがうっかり消去してしまいました(汗)


あ、この池の真ん中の食事スペースには舟が横付けしてあって
水上マーケットっぽい雰囲気がよく再現されていますよ。


一周回って一とおり見学したので、
そろそろアヨタヤ水上マーケットを後にすることに。


今回たまたま目的地ワット・ヤイ・チャイモンコンの近くにあるから
ついでに立ち寄ったんですが、そうでなければ来るつもりはありませんでした。
ここにまったく期待してなかったので。

でも来て本当に良かったです。
マーケットの雰囲気と品数の豊富さではアンパワーよりずっといいと思いますよ。






<交通費>
歩いただけなので:0バーツ
ここまでの合計:80バーツ

※旅は2013年3月29日(金)に行いました。
元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)


つづく


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こんなところにも遺跡が! 見どころ満載アユタヤ遺跡の東端[7]

アヨタヤ水上マーケットを出ると、正面にある施設に目が留まりました。


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アヨタヤ象村

タイ語でそう書かれています。覗いてみると、


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あ、ホントだ。象が何頭もいるではないですか。
これからショーでもやるんですかね?
私はあまり興味が無いからパスします ^_^;)


それよりもこの右側の裏手がなんとなく気になるんですよね。
何かあるのかなと思い歩いて行ってみると…


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うわぁ! あんなところにも仏塔遺跡が!
しかも打ち捨てられたように原野にポツンと立っているではないですか。

よしっ、あそこまで歩いて行ってみよう。
日差しを遮る物が何も無い中を開き直って突き進むと、


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この廃れ感が何とも言えずに素晴らしいですね。
写真では分かりにくいですが、上のほうにまで雑草が生えているんですよ。

あれ、仏塔の裏にも何かあるぞ。


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欠けた仏像が静かに佇んでいました。

ここには本堂があったようです。
あの仏塔とセットで一つの寺だったんでしょうね。


ちょっとした遺跡探検気分に浸っていると、
ふいに目を疑う光景が。


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象だ! なんでこんなところに!?

あ、さっきの象村ってショーをするんじゃなくて、
観光客を乗せるサービスをしているのか。
それでここはなんと、象乗りのコースってことか!

象に乗って遺跡を眺める贅沢な経験ができていいですね~。
それに遺跡と象を被写体にした写真を撮るにもいいですし、
これは興味深いスポットを見つけました。


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ところで象の向こうにもさらに遺跡が。
そのさらに奥にも大きめの遺跡がまだあるように見えます。

こうなったらあっちも見てみますか。
象が踏み固めた道を歩いて行きます。


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馬糞ならぬ象糞がコースに沿って連なっているのがなんとも(笑)

細い運河(?)に架かる橋を渡ると、


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遺跡に着きました。
そこに立っている案内板を読むと、どうやらさっきの仏塔と仏像も含めて
ワット・チャーン(象寺)というんだそうで。


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現存するアユタヤ時代の書物にはこの寺についての記述が何も無いものの、
考古学的にはアユタヤ王朝前期から存在し、1767年にビルマの攻撃で
アユタヤが陥落して以来打ち捨てられたままだったと推定されるんだとか。


続いてさらに奥の遺跡へと行ってみますか!






<交通費>
歩いただけなので:0バーツ
ここまでの合計:80バーツ

※旅は2013年3月29日(金)に行いました。
元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)


つづく


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穴場的な遺跡ワット・マヘーヨン 見どころ満載アユタヤ遺跡の東端[8]

ワットチャーンと呼ばれる遺跡を後にして、
またもや現れた細い運河に架かる橋を渡ります。


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その先には、四方を壁で囲まれた大きな遺跡が。
壁沿いに歩いて正面に出てみると、


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インド様式っぽい仏塔の遺跡が2つ。

案内板を見ると案の定「ワット・マヘーヨン」と。
そうか、ここがそうなのか。


この右手に入口があるにはあるのですが、


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この入口には鉄柵があって中に入れなくなっているのです。
でも意地でも入口を見つけてやろうと、北側の壁伝いに裏へと歩いていってみました。


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すると真裏に2人のおばさんが座る入場券売り場があるではないですか。
「タイ人10バーツ 外国人50バーツ」とあるので無言で10バーツ払おうとすると、
「外国人は50バーツ」と。見破られてしまったか。

「日本人? 日本人は100バーツよ。」
キツイ冗談は止めてくださいな -_-;)

さてさて、入りますか。


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元々はこちら側が正面だったんでしょうね、きっと。


あっ! 日本人村からソンテオに飛び乗る際に守衛さんが叫んでいた
「カンラン」(後ろ、裏側)って、入口が裏側にあることを教えてくれてたんだ!!
今になって気がつきましたよ。ありがとうございます、守衛さん(T_T)


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立派な長い回廊が続いています。
奥まで歩くと、本堂跡に到着。


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靴を脱ぐようにとの注意書きに従って、サンダルを脱いで階段を上ると、


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係員さんが気持ちよさそうに居眠り中(笑)
でもさすがです。私の気配を察知してすぐに起き、
「そこのスリッパを履いてください」と。

強烈な日差しで床は火傷しそうなほどの熱さなのです。
スリッパがあって助かりましたよ。

本堂跡内部はこんな様子。


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かつてはさぞかし素晴らしい姿だったんでしょうね。
かなり規模の大きな本堂だったことが分かります。


ご本尊は、


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ビルマ軍に破壊されたからなのか、欠けたままの姿。

後ろへと戻りながら見上げると、


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左側の壁に上から下へと流れる黒い筋がいくつもあるのが見えますか?
きっとビルマ軍の攻撃で火災に遭ったんでしょうね。
屋根は木材でできていたということか。


ワット・マヘーヨンも、ワット・ヤイ・チャイモンコンに劣らず
素晴らしい遺跡でした。


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境内には、ちょうどタイの国花ラーチャプルック(ゴールデンシャワー)が
見事な花を咲かせています。ちょうど開花時期でラッキーでした。


さて次なんですが、さらに北側にも小規模な遺跡が見えたので、
そこまで歩いていってみようと思います!





<交通費>
歩いただけなので:0バーツ
ここまでの合計:80バーツ

※旅は2013年3月29日(金)に行いました。
元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)


つづく


03_10


疲れたので帰ります ^_^;) 見どころ満載アユタヤ遺跡の東端[最終回]

なかなか見ごたえのあったワット・マヘーヨンの次に向かったのは、
さらに北側に見えていた遺跡。

そちらの近くには採石場か何かがあるらしく、
大きなダンプがひっきりなしに出てきています。

そんな横を歩いていると、私を追い抜いた一台のダンプが
プシューッっと目の前で止まるじゃないですか。

ギクッ…。

運転席のドアが開いてこちらに顔を向けたのは、にこやかな男性。
「表通りまで行くんなら乗って行く?」

えと、そこの遺跡を見たいので… ^_^;)

男性は分かったという顔をして再びダンプを走らせて行きました。

あービックリした。


そんなことがありつつもなんとか到着。


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蓮の花が綺麗に咲いた池だか運河だかの先に遺跡が佇んでいます。


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またまた橋を渡って遺跡へ。


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仏塔の基礎部分がタイ様式というよりはインドっぽくないですか?
詳しくないので間違っているかもしれませんが。

ワット・スィーカーサムットと看板にはあります。

ここもまたアユタヤ時代の書物に記述が残っていないものの
アユタヤ時代初期に創建されたようだとのこと。


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本堂跡はこんな感じ。


さて、アヨタヤ水上マーケット裏の遺跡群はこれにて終わり。
そろそろウォンウィエン・チェーディーから歩いてきた通りに戻りますか。

ワット・マヘーヨンの前を過ぎ、表通りへと繋がるソイを歩いていきます。


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もちろんモーターサイなんてどこにもいやしません ^_^;)
ひたすら歩くのみ。


ワット・マヘーヨン前から3分ほどで表通りに出ました。
思ったほど遠くなかったですね。


するとです。
通りの反対側に沿ってまたもや遺跡群が~!


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ワット・クディーダーオとか、


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ワット・サマナコーッターラームとかいくつか立派な遺跡があるんですが…


もう、ヘトヘトです (>_<)
暑さの中散々歩き回りましたからねぇ。

ギブアップです。帰りましょう。
ソンテオは無いかなー。

先にセブンイレブンを発見。店内はエアコンが効いててまるで天国だ~。
ついでに飲み物を購入。

チェーディーまで行くソンテオはありますか?
と店員の女の子に尋ねてみると、ニコニコしながら

「走れ!」

冗談キツイっすよ。


仕方がない。歩くか…。
重い足を引きずりながらひたすらウォンウィエン・チェーディーを目指して歩きます。


あ、遠くに見えてきた!


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セブンイレブンから12~3分でウォンウィエン・チェーディー交差点に到着。


北東側の角に人だまりがあったので、私もそこで待つことに。
きっとロッ・トゥーが止まるでしょう。

案の定すぐにやってきました!


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運転席から「戦勝記念塔!」という声が聞こえます。
これだこれだ。乗り込みます。

時刻は14:22。
うげ、暑い真っ盛りだったんですね。


エアコンの効いた快適な車内で爆睡しつつ、戦勝記念塔へ無事に帰ってきたのでした。


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時刻は15:38。


これにて今回のアユタヤ遺跡東端を巡る旅は終了です。

アユタヤはタイへ行き始めた頃にツアーで回ったし、暑いイメージがあるので
もういいやと思っていました。

でもタイ語がある程度できるようにり、タイの歴史などの知識も少し付いてから
改めて行ってみると、まだ見ていないスポットを発見したり、以前見たところでも
違った見方ができてより興味深く見学を楽しむことができたりするもんなんですね。

やはり世界遺産なだけのことはありますね。
そのうち島になっているアユタヤ遺跡中央部にも足を運んでみようと思います。


今回も最後までお付き合いくださいましてありがとうございました。
1,2回違う話題を挟んだ後、次は以前から行きたかった未踏の地への旅日記を
お送りする予定です!






<交通費>
ソンテオ:60バーツ
ここまでの合計:130バーツ

※旅は2013年3月29日(金)に行いました。
元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)


おわり


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「アユチヤ」日本人町の謎? 見どころ満載アユタヤ遺跡の東端[番外編]

バンコク周辺一日旅「見どころ満載アユタヤ遺跡の東端」で
アユタヤ日本人村を訪れた様子を綴った際(日本人村に到着」)に、
意図的に触れなかったことが一つあるんです。

それは、日本人村に足を踏み入れてまず目に飛び込むこの石碑、


10_01


「アユチヤ日本人町の跡」の文言についてです。


なぜアユタヤではなくてアユチヤなんだ?

見た人はみなきっと疑問に思うのでは? 私も最初にツアーで訪れた際には、
どうせタイ人に彫らせたから間違えたに違いない、なんて思ったものです ^_^;)


でもこれ、間違えたわけでは勿論無いんですよ。
というのも、かつて日本でアユタヤアユチヤと呼ばれていたからなんです。

例えば1937(昭和12)年9月発行の財団法人暹羅協会会報第8号には
次のような文章が見られます。


此機に際し三百年前の快男児長政の記念碑を旧都「アユチヤ」の一角に建て
旧事を追懐すること、一は暹羅国人をして長政の偉動を追想して、我日本民族
の古武士精神に対する憧憬の念を増さしむると同時に、…

(※旧字を現代文字に直してあります。)


これは当時、この地に計画された山田長政記念碑建設事業を報じた内容の一部です。

あ、そうそう。当時のタイの国名はサヤームで、
日本では暹羅(シャム)と呼ばれていました。


そもそもこの日本人村の地は、1935年設立の日暹協会(現、泰日協会)が
設立後まもなくの頃に、アユタヤ時代に日本人村のあった地域の土地を購入し、
簡素な長政祠を建てていた場所。

で、祠の前には日本人会や青年会の協力で「記念標」(これがこの碑か?)と
日本式鳥居も建てられていました。


そして1937年、日暹修好50年記念に、上記引用文のとおりこの地に
山田長政記念碑を建てようという計画が持ち上がります。

なんと約16メートルの高さでオベリスク状のものという立派な記念碑です。
しかし日中戦争が勃発して頓挫。

その後日本の南進政策や太平洋戦争開戦を受けて日タイ関係が緊密になるにつれ、
再び計画が盛り上がり、1943年、再度記念碑建設が決定されます。

が、日本の敗色が急速に濃くなり、
結局この記念碑建設事業は日の目を見ませんでした。


…と話が逸れましたが、戦前~戦後直後の頃、
日本では一般的に「アユチヤ」と呼ばれていたのです。


ではなぜ「アユチヤ」だったのかですが、


・・・はっきりしません(汗)


可能性としては、アユタヤの名の由来となったインドの古都アヨーディヤーとの
混同も考えられるかもしれません。

今でもTibetをベット、Putinをプーンと言いいますが、
とくに昔は「ティ」音を「チ」と表記していたようなので、
アヨディヤ→アユティヤ→アユチヤ
とか。うーん、ちょっと苦しいですかね? ^_^;)

あるいは当時の英語読みも「ディ」か「ティ」だったのかもしれませんね。
アユタヤ時代にポルトガル人が作成したアユタヤ地図には「Iudea」と
書かれていますし。


いつ頃「アユタヤ」に変わったのか調べ切れませんでしたが、
少なくとも昭和20年代半ばまでは「アユチヤ」と呼ばれていたようです。

この碑は、そんな時代に建てられたために「アユチヤ」になっているのです。


かつてはソンクラーをシンゴラと呼んだり、
今でもスラウォン通りをスリウォン通りと呼んだり…。

日本語でのタイ地名表記には不思議に思う点が時々ありますね。



<参考>
『財団法人暹羅協会会報第8号』1937年9月
『財団法人日本タイ協会会報第35号』1943年8月
「バーンコークの日暹協会」天田六郎、『財団法人日本シャム協会会報第48号』1948年4月



 
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