ラーチャブリーへの旅はこれで何回目になるんでしょう?
なぜかこの町に惹かれるんですよね。
今回はラーチャブリー出身の知り合いのタイ人から
興味深いラーチャブリー土産の情報を得たので、
いっちょ買いに行ってみるかと旅立ったのでした。
日程は、2016年5月28日(土)。
おっと、ラーチャブリー県の位置をグーグルマップの地図を拝借して
示しておきましょう。
バンコクの西方、ミャンマーと国境を接したところに
ラーチャブリー県はあります。
中心部は地図中「ラチャブリー」の「ャ」と「ブ」の字の間辺り。
ではまずはロッ・トゥーに乗りに戦勝記念塔近く、
センチュリーというショッピングセンター北側にあった
ロッ・トゥー乗り場へ向かいます。
実は軍政の方針で、2016年10月25日から主要ロッ・トゥー乗り場が
行先方面別にモーチット、南、エカマイの3バスターミナルに
強制移転させられてしまったんですよ。
私はこの目でまだ確認していないんですが、
戦勝記念塔周辺やこのセンチュリー界隈にあったロッ・トゥー乗り場も
ことごとく今は消え去って、いずれかのバスターミナルに移ったようです。
ラーチャブリー行きは、南バスターミナルに集約させられたみたいですね。
というわけで、これはありし日のセンチュリー北側ロッ・トゥー乗り場の光景。
乗り込んだらほどなくで出発です。
時刻は07:02。
順調に国道4号線をかっ飛ばしたロッ・トゥーが
メークローン川を渡ったら、そこはもうラーチャブリー中心部です。
他の乗客とともに橋を渡った先で下車しました。
時刻は、08:33。
この進行方向左手は土手になっていて、
上に国鉄南線が走っているんです。
来た方向に振り返って見ると、
こんな感じ。 ちょうど駅があります。
ちょっと上ってみますか。
ここは、チュラロンコン橋駅。
メークローン川に架かる鉄道橋の名が駅名になっています。
んじゃ、向こうに見えるその橋に向かいますか。
ホームの端を下りてさらに進むと左手に何やらありましたよ。
振り返ると、
でっかい水瓶(みずがめ)!
ラーチャブリーは、かつて水瓶の一大産地で重要な輸出産品だったんです。
それで町の入口にモニュメントとして飾ってあるんですね。
水瓶については、また何回か後に触れることにします。
で、その先に目的の…
チュラロンコン橋が!
立派な鉄橋ですね。
カンチャナブリーの「戦場にかける橋」ことクウェー川鉄橋、
日本軍の呼称だと「メクロン鉄道橋」をなんとなく連想させる姿ではないですか。
ちなみにこのメークローン川を遡上していくとカンチャナブリーで
クウェーヤイ川と名が変わるので、2つの橋は同じ川に架かってるんです。
このチュラロンコン橋は、タイ国鉄南線開通に合わせて
鉄道・自動車兼用橋として建設され、1901年に時の国王ラマ5世、
別名チュラロンコン大王が立ち会われて開通式が執り行われました。
橋の名もラマ5世による命名です。
当時の橋の様子はここの3枚目の写真で確認できますよ。
「BUILT. 1901」の字が読めますね。
その右には改修年の「仏暦2503年」(西暦1960年)の文字もあります。
太平洋戦争中には日本軍がマレーからの人員物資輸送に国鉄南線を使ったため、
この橋は、連合国軍の爆撃にさらされたのだそうです。
しかし何度爆撃しても爆弾が当たらなかったのが、連合国軍は1945年2月11日夜、
鎖でつないだ時限式爆弾を投下して橋に絡ませることに成功。
翌12日朝6時30分、時限式爆弾が爆発して橋は落ちてしまったのでした。
以後日本軍はチュラロンコン橋駅辺りで貨車から積み荷を降ろして渡し船に載せ、
川を運搬して対岸から再び貨車に載せて運ぶという不便を強いられたのだそうで。
戦後、インド軍指揮のもと、抑留日本軍を使役して橋の再建工事が
昼夜問わず行われ、工期2か月で1945年10月20日に開通しました。
その後、1960年に改修工事が行われ、翌61年に改修完工式が開催されています。
橋にある「仏暦2503年」の文字はそれを表しているんですね。
1960年のは「改修」ですので、今の姿は日本軍の手で建設されたもの
といっていいでしょう。現在は鉄道専用橋です。
あっ、ちょうどバンコク方面行列車がチュラロンコン橋駅に停車しましたよ。
そして、
チュラロンコン橋を渡って行きます。
日本軍の手による鉄橋が今も現役で活躍しているとは、
なんだか胸が熱くなります。
鉄橋のわきにある歩道で対岸へ渡ることにします。
中央には釣り人の姿が。
帰ってから調べていて知ったんですが、この橋の真下、
メークローン川の川底に、なんと蒸気機関車が沈んでいるんだそうですよ。
1992年に偶然発見されたのだそうで。
その知らせにラーチャブリー県では、歴史のシンボルとして観光に利用しようと
蒸気機関車の引き揚げを何度も計画したのですが、予算の問題などで
未だに実施されていません。
肝心の蒸気機関車の型ですが、水中の視界が悪く写真撮影が困難なために
これまた未だに特定できていないようです。
ただ、日本製C56かイギリスのKITSON/NORTH BRITISH社製P-CLASSでは
ないかと 推定されているようで。
日本のどこかのTV局さん、代わりに引き揚げて番組にしませんか~?
そんな太平洋戦争の残滓を感じるチュラロンコン橋を渡り切り、
振り向いてみます。
右に架かる自動車橋は「タナラット橋」。
ロッ・トゥーでさっき渡ったのはあっちの橋です。
さて、これから軍の基地に入ってみますよー。
かなりドキドキですが。
<旅費交通費>
ロッ・トゥー:100バーツ
ここまでの合計:100バーツ
※旅は2016年5月28日(土)に行いました。
<参考>
ราชบุรีศึกษา "ความพยายามในการกู้หัวรถจักร ใต้สะพานจุฬาลงกรณ์"
ราชบุรีศึกษา "สะพานจุฬาลงกรณ์ กับ ประวัติศาสตร์ที่สาปสูญ"
ราชบุรีวาไรตี้ "ภาพประวัติศาสตร์ เปิดสะพานจุฬาลงกรณ์"
元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)
つづく
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なぜかこの町に惹かれるんですよね。
今回はラーチャブリー出身の知り合いのタイ人から
興味深いラーチャブリー土産の情報を得たので、
いっちょ買いに行ってみるかと旅立ったのでした。
日程は、2016年5月28日(土)。
おっと、ラーチャブリー県の位置をグーグルマップの地図を拝借して
示しておきましょう。
バンコクの西方、ミャンマーと国境を接したところに
ラーチャブリー県はあります。
中心部は地図中「ラチャブリー」の「ャ」と「ブ」の字の間辺り。
ではまずはロッ・トゥーに乗りに戦勝記念塔近く、
センチュリーというショッピングセンター北側にあった
ロッ・トゥー乗り場へ向かいます。
実は軍政の方針で、2016年10月25日から主要ロッ・トゥー乗り場が
行先方面別にモーチット、南、エカマイの3バスターミナルに
強制移転させられてしまったんですよ。
私はこの目でまだ確認していないんですが、
戦勝記念塔周辺やこのセンチュリー界隈にあったロッ・トゥー乗り場も
ことごとく今は消え去って、いずれかのバスターミナルに移ったようです。
ラーチャブリー行きは、南バスターミナルに集約させられたみたいですね。
というわけで、これはありし日のセンチュリー北側ロッ・トゥー乗り場の光景。
乗り込んだらほどなくで出発です。
時刻は07:02。
順調に国道4号線をかっ飛ばしたロッ・トゥーが
メークローン川を渡ったら、そこはもうラーチャブリー中心部です。
他の乗客とともに橋を渡った先で下車しました。
時刻は、08:33。
この進行方向左手は土手になっていて、
上に国鉄南線が走っているんです。
来た方向に振り返って見ると、
こんな感じ。 ちょうど駅があります。
ちょっと上ってみますか。
ここは、チュラロンコン橋駅。
メークローン川に架かる鉄道橋の名が駅名になっています。
んじゃ、向こうに見えるその橋に向かいますか。
ホームの端を下りてさらに進むと左手に何やらありましたよ。
振り返ると、
でっかい水瓶(みずがめ)!
ラーチャブリーは、かつて水瓶の一大産地で重要な輸出産品だったんです。
それで町の入口にモニュメントとして飾ってあるんですね。
水瓶については、また何回か後に触れることにします。
で、その先に目的の…
チュラロンコン橋が!
立派な鉄橋ですね。
カンチャナブリーの「戦場にかける橋」ことクウェー川鉄橋、
日本軍の呼称だと「メクロン鉄道橋」をなんとなく連想させる姿ではないですか。
ちなみにこのメークローン川を遡上していくとカンチャナブリーで
クウェーヤイ川と名が変わるので、2つの橋は同じ川に架かってるんです。
このチュラロンコン橋は、タイ国鉄南線開通に合わせて
鉄道・自動車兼用橋として建設され、1901年に時の国王ラマ5世、
別名チュラロンコン大王が立ち会われて開通式が執り行われました。
橋の名もラマ5世による命名です。
当時の橋の様子はここの3枚目の写真で確認できますよ。
「BUILT. 1901」の字が読めますね。
その右には改修年の「仏暦2503年」(西暦1960年)の文字もあります。
太平洋戦争中には日本軍がマレーからの人員物資輸送に国鉄南線を使ったため、
この橋は、連合国軍の爆撃にさらされたのだそうです。
しかし何度爆撃しても爆弾が当たらなかったのが、連合国軍は1945年2月11日夜、
鎖でつないだ時限式爆弾を投下して橋に絡ませることに成功。
翌12日朝6時30分、時限式爆弾が爆発して橋は落ちてしまったのでした。
以後日本軍はチュラロンコン橋駅辺りで貨車から積み荷を降ろして渡し船に載せ、
川を運搬して対岸から再び貨車に載せて運ぶという不便を強いられたのだそうで。
戦後、インド軍指揮のもと、抑留日本軍を使役して橋の再建工事が
昼夜問わず行われ、工期2か月で1945年10月20日に開通しました。
その後、1960年に改修工事が行われ、翌61年に改修完工式が開催されています。
橋にある「仏暦2503年」の文字はそれを表しているんですね。
1960年のは「改修」ですので、今の姿は日本軍の手で建設されたもの
といっていいでしょう。現在は鉄道専用橋です。
あっ、ちょうどバンコク方面行列車がチュラロンコン橋駅に停車しましたよ。
そして、
チュラロンコン橋を渡って行きます。
日本軍の手による鉄橋が今も現役で活躍しているとは、
なんだか胸が熱くなります。
鉄橋のわきにある歩道で対岸へ渡ることにします。
中央には釣り人の姿が。
帰ってから調べていて知ったんですが、この橋の真下、
メークローン川の川底に、なんと蒸気機関車が沈んでいるんだそうですよ。
1992年に偶然発見されたのだそうで。
その知らせにラーチャブリー県では、歴史のシンボルとして観光に利用しようと
蒸気機関車の引き揚げを何度も計画したのですが、予算の問題などで
未だに実施されていません。
肝心の蒸気機関車の型ですが、水中の視界が悪く写真撮影が困難なために
これまた未だに特定できていないようです。
ただ、日本製C56かイギリスのKITSON/NORTH BRITISH社製P-CLASSでは
ないかと 推定されているようで。
日本のどこかのTV局さん、代わりに引き揚げて番組にしませんか~?
そんな太平洋戦争の残滓を感じるチュラロンコン橋を渡り切り、
振り向いてみます。
右に架かる自動車橋は「タナラット橋」。
ロッ・トゥーでさっき渡ったのはあっちの橋です。
さて、これから軍の基地に入ってみますよー。
かなりドキドキですが。
<旅費交通費>
ロッ・トゥー:100バーツ
ここまでの合計:100バーツ
※旅は2016年5月28日(土)に行いました。
<参考>
ราชบุรีศึกษา "ความพยายามในการกู้หัวรถจักร ใต้สะพานจุฬาลงกรณ์"
ราชบุรีศึกษา "สะพานจุฬาลงกรณ์ กับ ประวัติศาสตร์ที่สาปสูญ"
ราชบุรีวาไรตี้ "ภาพประวัติศาสตร์ เปิดสะพานจุฬาลงกรณ์"
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★★★お薦めのタイ語学習書★★★
◇ 入門 ◇
『CD付き らくらく話せる! タイ語レッスン』ナツメ社
◇ 中 級 ◇
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◇ 上 級 ◇
『タイ語上級講座 読解と作文』めこん</