涼も取れたのでいよいよヘルファイア・パスへ向かうことにして、
ヘルファイア・パス・メモリアル・ミュージアム
(HELLFIRE PASS MEMORIAL MUSEUM)の横から
裏手へと下る遊歩道を進むと、
こんなところに出ました。
ここで道が左右に分かれています。
左はここと同じく木の板張りの立派な遊歩道。
右はコンクリートの細い道。
うむむ。どっちだ?
あんな険しいところまで板張りの遊歩道が続いているわけないよな。
きっと展望台か何かへ出る道なんじゃないか?
と判断し、「HELLFIRE PASS」との看板が立っていたこともあり、
右のコンクリートの歩道を歩いていくことにしました。
この選択が大きな間違いであることをこの時は知る由もなく… -_-;)
歩いていくと「HELLFIRE PASS→」との看板が再び出現。
やっぱりこっちで正しかったんだー。 と安心したのも束の間。
うげげっ、この長い階段を登らなきゃならないの!?
息を切らせて登り切ると先には、
急な下りが待ち受けていたのでありました。
そしてまた登って、下って…。
まったくもって登山のレベル。
高尾山よりハードですよ(>_<)
出発して10分、またまた急で長い階段を下りた先に何かありますよ。
展望台だ!
乗って見下ろすと…、
おおぉーーー!!
ヘルファイア・パスが眼下に!
最後の階段を駆け下りると、
ヘルファイア・パスの入口に出ることができました。
ちなみに下って来た階段が左端に見えています。
ここは泰緬鉄道の線路を通すために岩山を削った場所。
作業にはシンガポールなどで捕虜となった連合国軍兵士や
雇われた近隣国の労働者(当時は労務者と呼ばれていましたが)が従事しました。
過酷な労働と環境で多数の死者を出した場所です。
壁面には犠牲者を悼むプレートや十字架が掲げられていたり。
ここがなぜヘルファイア・パス(HELLFIRE PASS)、
訳せば「地獄火の切り通し」と呼ばれているかと言うと、
ミュージアムのパンフレットによれば、「痩せ衰えた労働者を照らし出して
ゆらめくたき火の明かりにちなんで名付けられ」たのだそうです。
その光景が映画『レイルウェイ 運命の旅路』でよく再現されています。
リンク先の予告編でも一瞬ながら登場しますのでぜひ見てみてください。
37秒あたりです。
ここは「コンユウの切り通し」とも呼ばれているんですが、
このタイ語っぽくない名称の由来は何なんでしょうね。
ではヘルファイア・パスを歩いてみますか。
お、枕木がところどころ残っているではないですか。
でも砂利は新たに敷き直したもののようで。
中央に針のような細い木が一本すっと立っています。
切り通しは高いところで11m。
作業は雨季に重なったためコレラの蔓延で多くの死者が出たそうですが、
デング熱やマラリアも流行ったんでしょうね。
さっき展望台から見下ろして撮影している時、
気が付くと無数の蚊が私にまとわりついてきていましたから。
ここを訪れるなら蚊除けスプレー必携です。
切り通しの出口付近まで来て振り返ると、
ここにだけ線路が残されていました。
顔を近づけてまじまじと見ると、
BARROW STEEL
との刻印が。イギリス製ですね。
マレーかビルマの鉄道からはがされて転用されたものでしょう。
ふと顔を上げると十人ほどの欧米人グループから
視線を注がれているではないですか。
「あなたが去るのを待ってるんですよ」
笑顔のタイ人男性ガイドさんが英語で声をかけてきました。
あ、そうか。みんな写真を撮りたくて待っていたんですね。
どうもすみません ^_^;)
Sorry sorryと駆け足で場所を譲ると、
みなさんににこにこ顔。軽く声をかけてくれる年配の女性も。
英語が苦手で気の利いた返事ができないのが悔しいったらありゃしませんよ。
オーストラリアからの団体さんのようです。
年配の方も数人いたんですが、よくあの道を歩いて来られたもんですね。
線路跡はカンチャナブリー方面へまだ続いています。
朽ちかけた枕木がところどころに。
短い木橋を渡った先には、
あっ・・・。
全て謎が解けたぞ。
分かれ道を左へ行っていれば難なくここに出て来れたんだな。
さっきのオーストラリア人団体さんもここを下りてきたのか。
きっと私の選んだ道は当初設けられたルートで、
その後楽なこっちの新ルートが整備されたということなんでしょう。
要らぬ苦労をしてしまった… -_-;)
大いに凹みつつ、さらに行けるところまで線路跡を辿ります。
<旅費交通費>
歩いただけなので:0バーツ
ここまでの合計:1,664バーツ
※旅は2014年5月12日(月)~13日(火)に行いました。
元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)
つづく
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ヘルファイア・パス・メモリアル・ミュージアム
(HELLFIRE PASS MEMORIAL MUSEUM)の横から
裏手へと下る遊歩道を進むと、
こんなところに出ました。
ここで道が左右に分かれています。
左はここと同じく木の板張りの立派な遊歩道。
右はコンクリートの細い道。
うむむ。どっちだ?
あんな険しいところまで板張りの遊歩道が続いているわけないよな。
きっと展望台か何かへ出る道なんじゃないか?
と判断し、「HELLFIRE PASS」との看板が立っていたこともあり、
右のコンクリートの歩道を歩いていくことにしました。
この選択が大きな間違いであることをこの時は知る由もなく… -_-;)
歩いていくと「HELLFIRE PASS→」との看板が再び出現。
やっぱりこっちで正しかったんだー。 と安心したのも束の間。
うげげっ、この長い階段を登らなきゃならないの!?
息を切らせて登り切ると先には、
急な下りが待ち受けていたのでありました。
そしてまた登って、下って…。
まったくもって登山のレベル。
高尾山よりハードですよ(>_<)
出発して10分、またまた急で長い階段を下りた先に何かありますよ。
展望台だ!
乗って見下ろすと…、
おおぉーーー!!
ヘルファイア・パスが眼下に!
最後の階段を駆け下りると、
ヘルファイア・パスの入口に出ることができました。
ちなみに下って来た階段が左端に見えています。
ここは泰緬鉄道の線路を通すために岩山を削った場所。
作業にはシンガポールなどで捕虜となった連合国軍兵士や
雇われた近隣国の労働者(当時は労務者と呼ばれていましたが)が従事しました。
過酷な労働と環境で多数の死者を出した場所です。
壁面には犠牲者を悼むプレートや十字架が掲げられていたり。
ここがなぜヘルファイア・パス(HELLFIRE PASS)、
訳せば「地獄火の切り通し」と呼ばれているかと言うと、
ミュージアムのパンフレットによれば、「痩せ衰えた労働者を照らし出して
ゆらめくたき火の明かりにちなんで名付けられ」たのだそうです。
その光景が映画『レイルウェイ 運命の旅路』でよく再現されています。
リンク先の予告編でも一瞬ながら登場しますのでぜひ見てみてください。
37秒あたりです。
ここは「コンユウの切り通し」とも呼ばれているんですが、
このタイ語っぽくない名称の由来は何なんでしょうね。
ではヘルファイア・パスを歩いてみますか。
お、枕木がところどころ残っているではないですか。
でも砂利は新たに敷き直したもののようで。
中央に針のような細い木が一本すっと立っています。
切り通しは高いところで11m。
作業は雨季に重なったためコレラの蔓延で多くの死者が出たそうですが、
デング熱やマラリアも流行ったんでしょうね。
さっき展望台から見下ろして撮影している時、
気が付くと無数の蚊が私にまとわりついてきていましたから。
ここを訪れるなら蚊除けスプレー必携です。
切り通しの出口付近まで来て振り返ると、
ここにだけ線路が残されていました。
顔を近づけてまじまじと見ると、
BARROW STEEL
との刻印が。イギリス製ですね。
マレーかビルマの鉄道からはがされて転用されたものでしょう。
ふと顔を上げると十人ほどの欧米人グループから
視線を注がれているではないですか。
「あなたが去るのを待ってるんですよ」
笑顔のタイ人男性ガイドさんが英語で声をかけてきました。
あ、そうか。みんな写真を撮りたくて待っていたんですね。
どうもすみません ^_^;)
Sorry sorryと駆け足で場所を譲ると、
みなさんににこにこ顔。軽く声をかけてくれる年配の女性も。
英語が苦手で気の利いた返事ができないのが悔しいったらありゃしませんよ。
オーストラリアからの団体さんのようです。
年配の方も数人いたんですが、よくあの道を歩いて来られたもんですね。
線路跡はカンチャナブリー方面へまだ続いています。
朽ちかけた枕木がところどころに。
短い木橋を渡った先には、
あっ・・・。
全て謎が解けたぞ。
分かれ道を左へ行っていれば難なくここに出て来れたんだな。
さっきのオーストラリア人団体さんもここを下りてきたのか。
きっと私の選んだ道は当初設けられたルートで、
その後楽なこっちの新ルートが整備されたということなんでしょう。
要らぬ苦労をしてしまった… -_-;)
大いに凹みつつ、さらに行けるところまで線路跡を辿ります。
<旅費交通費>
歩いただけなので:0バーツ
ここまでの合計:1,664バーツ
※旅は2014年5月12日(月)~13日(火)に行いました。
元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)
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