給油を終えた船は再び走りはじめました。
ほどなくして、
「あそこです」と子供船頭さん。
ん? あ、それがそうなの?
船が近付いて行くと、
間違いない! これだ!
泰緬鉄道の線路跡ですよ!
再びエンジンを止め、子供船頭さんがオールを漕いで船を横付け。
上陸します。
この盛り土の具合、まさしく線路跡ですよね。
カオレーム・ダムの水の中へと消えていっている方向に歩いて行きます。
向きとしてはビルマ方面。
泰緬鉄道が運行していた頃は、もちろんこの先も陸上でした。
1984年にカオレーム・ダムができたために、
旧サンクラブリーの町とともに湖底に沈んでしまったのです。
線路跡の先に見える山は、先ほど砲撃跡を見たランティー山です。
でも線路は、この後まっすぐランティー山には向かわずに
右へとほぼ直角にカーブしていたようで。
では、逆方向、つまりカンチャナブリー方面へと
泰緬鉄道線路跡を辿れるだけ辿ってみますか。
お父さんと一緒に線路跡に上がっていた子供船頭さんも
私についてきました。
ここから線路跡は陸上へ。
時期によってダム湖の水位がかなり上下するようです。
緑に見える部分は雨季真っ盛りには水の中だったのでは?
その先は、野焼きでもしたかなような黒い地面の上に
線路跡が伸びています。
さらに進むと、森に突入。
切り通しになった間を線路跡が続いているのですが、
倒れかかった細い竹や木々、雑草が再三行く手を塞いで苦労します。
そしてとうとう、
どう考えても、素手ではもう前進不可能。
倒れた木々の間から覗くと、切り通しはまだまだ続いていました。
竹や草を刈って歩きやすく整備すれば、貴重な観光資源になるじゃないですか!
なんとももったいない!!
引き返しながらそう子供船頭さんに言うと、
「さっきニシキヘビがいたので小走りで逃げてきました」
そういうことは早く言ってくれ~!!
泰緬鉄道建設当時、ジャングルの中での作業は、マラリアや
ちょっとした切り傷から菌が入ることにより肉を腐らせる熱帯性潰瘍などの
疫病に苦しめられたそうです。
ジャングル自体の状態は70年前と変わらないと思われるので、
今でもそんな疫病への罹患やヘビやヒルに噛まれる危険性は
同じなんでしょうね。
観光資源化への整備といっても、
そうたやすいことではないのかもしれません。
建設工事中はもちろん、開通後も列車転覆で死者を出し続けた泰緬鉄道ですが、
今こうやって眺めると、穏やかな風景で平和そのものです。
注意深く足元を見ていたんですが、鉄の線路はもちろん、
枕木も線路を止める釘もまったく見当たりませんでした。
たまに巻き貝の貝殻を見かけたぐらいです。
しゃがみこみ、煙草の煙をくゆらせているお父さんの元へ戻って来ました。
今回サンクラブリーまで来た最大の目的だった
ダム湖に沈む泰緬鉄道の線路跡を見ることを達成できて大満足です。
もう結構です。行きましょう。
船に乗り込みます。
時刻は、09:39。
少なくとも、貴重な歴史遺産を後世までしっかり残して欲しいですね。
「それは難しいかもしれませんよ。波が少しずつ線路跡を削っているので」
と、指差す子供船頭さん。
あ、本当だ。
すぐに消滅ということはないだろうけど、
100年後には残ってないかもしれませんね。
泰緬鉄道の線路跡を離れます。
次はランティー川に架かる橋経由で、
湖の反対側にもある砲撃跡に連れて行ってくれるんだそうで。
もう全ておまかせです ^_^;)
グーグルマップの航空写真を拝借した各場所の説明に
泰緬鉄道線路跡も追加しておきました。
<旅費交通費>
船賃未払いなので:0バーツ
ここまでの合計:975バーツ
※旅は2014年4月1日(火)~2日(水)に行いました。
<参考>
『泰緬鉄道―機密文書が明かすアジア太平洋戦争』吉川利治著,同文舘,1994
元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)
つづく
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ほどなくして、
「あそこです」と子供船頭さん。
ん? あ、それがそうなの?
船が近付いて行くと、
間違いない! これだ!
泰緬鉄道の線路跡ですよ!
再びエンジンを止め、子供船頭さんがオールを漕いで船を横付け。
上陸します。
この盛り土の具合、まさしく線路跡ですよね。
カオレーム・ダムの水の中へと消えていっている方向に歩いて行きます。
向きとしてはビルマ方面。
泰緬鉄道が運行していた頃は、もちろんこの先も陸上でした。
1984年にカオレーム・ダムができたために、
旧サンクラブリーの町とともに湖底に沈んでしまったのです。
線路跡の先に見える山は、先ほど砲撃跡を見たランティー山です。
でも線路は、この後まっすぐランティー山には向かわずに
右へとほぼ直角にカーブしていたようで。
では、逆方向、つまりカンチャナブリー方面へと
泰緬鉄道線路跡を辿れるだけ辿ってみますか。
お父さんと一緒に線路跡に上がっていた子供船頭さんも
私についてきました。
ここから線路跡は陸上へ。
時期によってダム湖の水位がかなり上下するようです。
緑に見える部分は雨季真っ盛りには水の中だったのでは?
その先は、野焼きでもしたかなような黒い地面の上に
線路跡が伸びています。
さらに進むと、森に突入。
切り通しになった間を線路跡が続いているのですが、
倒れかかった細い竹や木々、雑草が再三行く手を塞いで苦労します。
そしてとうとう、
どう考えても、素手ではもう前進不可能。
倒れた木々の間から覗くと、切り通しはまだまだ続いていました。
竹や草を刈って歩きやすく整備すれば、貴重な観光資源になるじゃないですか!
なんとももったいない!!
引き返しながらそう子供船頭さんに言うと、
「さっきニシキヘビがいたので小走りで逃げてきました」
そういうことは早く言ってくれ~!!
泰緬鉄道建設当時、ジャングルの中での作業は、マラリアや
ちょっとした切り傷から菌が入ることにより肉を腐らせる熱帯性潰瘍などの
疫病に苦しめられたそうです。
ジャングル自体の状態は70年前と変わらないと思われるので、
今でもそんな疫病への罹患やヘビやヒルに噛まれる危険性は
同じなんでしょうね。
観光資源化への整備といっても、
そうたやすいことではないのかもしれません。
建設工事中はもちろん、開通後も列車転覆で死者を出し続けた泰緬鉄道ですが、
今こうやって眺めると、穏やかな風景で平和そのものです。
注意深く足元を見ていたんですが、鉄の線路はもちろん、
枕木も線路を止める釘もまったく見当たりませんでした。
たまに巻き貝の貝殻を見かけたぐらいです。
しゃがみこみ、煙草の煙をくゆらせているお父さんの元へ戻って来ました。
今回サンクラブリーまで来た最大の目的だった
ダム湖に沈む泰緬鉄道の線路跡を見ることを達成できて大満足です。
もう結構です。行きましょう。
船に乗り込みます。
時刻は、09:39。
少なくとも、貴重な歴史遺産を後世までしっかり残して欲しいですね。
「それは難しいかもしれませんよ。波が少しずつ線路跡を削っているので」
と、指差す子供船頭さん。
あ、本当だ。
すぐに消滅ということはないだろうけど、
100年後には残ってないかもしれませんね。
泰緬鉄道の線路跡を離れます。
次はランティー川に架かる橋経由で、
湖の反対側にもある砲撃跡に連れて行ってくれるんだそうで。
もう全ておまかせです ^_^;)
グーグルマップの航空写真を拝借した各場所の説明に
泰緬鉄道線路跡も追加しておきました。
<旅費交通費>
船賃未払いなので:0バーツ
ここまでの合計:975バーツ
※旅は2014年4月1日(火)~2日(水)に行いました。
<参考>
『泰緬鉄道―機密文書が明かすアジア太平洋戦争』吉川利治著,同文舘,1994
元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)
つづく
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