ワット・プラーンマニー、別名ワット・ルアンポー・パークデーン本堂での
参拝を済ませた私は、お参りセット売店のところへ戻ります。
売り子のおばさんはニコニコしながら早速私を案内してくれます。
ここに日本人は来たりしますか?
「沢山来るわよ。日本の軍人だと思う」
まるで自分だけが知っている秘密を明かすんだとでも言いたげな顔つきで
私の目を凝視しながら教えてくれました。
自衛隊に違いない。
自衛隊の人達が連れ立って、今でも慰霊に訪れているんでしょう。
土産物店の連なる道を右にはずれたところで「ここよ」とおばさん。
あ、本当だ!
「これをお供えしてね」と花を差した花瓶を渡してくれました。
ありがとうございます。
花代と案内してくれたお礼も兼ねて100バーツ札を手渡そうとすると
断るではないですか。感謝の気持ちですと伝えてようやく受け取ってもらえました。
「じゃ、私は戻るね。サヨナラ」
さよなら ^^
最後は日本語で嬉しいじゃないですか~。
受け取った花をお供えし手を合わせます。
ここはというと、
第三十七師團慰霊碑。
白い祠の中に建っています。
なんでこんなところに? と思うかもしれませんね。
太平洋戦争の末期、インドの英印軍に打撃を与えるはずが逆に英印軍の
ビルマ進攻を許し退却することになったインパール作戦の大失敗の後、
日本陸軍はタイで英印軍を迎え撃つ作戦に変更を余儀なくされました。
バンコクでは連合国軍の爆撃が激しくなっていたこともあり、
陸軍は最終決戦の地をこのナコンナーヨックに定めたのです。
理由は、山があるから。
山間部に洞窟を掘るなどして要塞化を図ろうとしました。
タイ国内やビルマに展開していた部隊が続々とナコンナーヨックに集結します。
その中に第37師団もいました。
第37師団はなんと中国の山西省西南部普南からはるばる南進してきたのです。
途中ベトナムでは、フランス領インドシナからフランス軍を駆逐し、
ベトナム、カンボジア、ラオスを独立させる「明号作戦」(1945年3月9日)に参加、
成功に導きます。勇猛な師団だったそうで。
ナコンナーヨック入りした時の兵力は約1万。軍馬を3,100頭携えていました。
しかし英印軍との戦闘になる前に終戦。
この地に駐屯していた各部隊はそのままこの地で抑留されます。
と言っても大多数の兵は塀の中に囚われるでもなく、
畑仕事などをしながらのんびり暮らし、翌46年日本へ復員したのでした。
この碑は、第37師団の戦友会が、命を落とした兵と軍馬を慰霊するために
1989年3月25日に建立されました。
立派な慰霊碑です。
ふとなぜか天井が気になったので見上げると…
うわぁっ! 思わず声が出てしまいました!
右手に建っている碑誌を文字起こししてみます。
改行位置は原文どおりにましたが、読み易くするため段分けをしてあります。
日本旧陸軍 第三十七師團碑誌
第三十七師団(冬)は 一九三九年(昭和十四年)三月二十五日
九州で編成 中国山西省普南へ出征して警備に任じ 次いで一九四
四年春 中国縦断の大陸打通作戦に参加して南進した
すなわち中国運城から南へ征旅一万四百余粁 千山万岳を踏破し
仏印を経てタイに入り一九四五年夏 英印軍との最後の決戦に備え
てこのナコンナヨックに進出した 図らずも同年八月十五日終戦
点を仰いで長恨極まりなく武器を捨ててこの地に駐留し力尽きて倒
れし多くの兵馬をこの地に埋めて 一九四六年 故山に復員した
先の大戦において昔しくも戦没せし殉国の師団将兵七九二〇柱と
師団軍馬四三七六頭の精霊を祭り わずか七歳で消滅した歴戦の師
団と軍旗三旗を偲び 併せて大戦間失われし彼我幾多の犠牲を悼む
と共に 永遠なる平和への思いをこめて この碑を建てる
このナコンナヨックは 師団終焉の記念すべき地であり 師団が
ここに駐留間 タイ王国官民から賜わりし温かい友情と この碑建
設に尽力下されしナコンナヨック郡役所及びプランマニー寺のご厚
意に対し 深く感謝の意を表する そしてこの碑が 末永く日本と
タイ王国との親善の礎石となることを祈る
一九八九年三月二十五日(第三十七師団創立五十周年記念日)
第三十七師團慰霊碑建設奉賛会
師団創立50周年にあわせて建立したんですね。
ちなみに「冬」とは、第37師団の兵団文字符です。
兵団文字符は、師団や独立混成旅団などの大きな部隊に名付けられました。
元々は部隊名を秘匿するためのものだったのが、愛称的に用いられたりもしたようです。
ちなみに第37師団には「冬」兵団のほかに、
大陸打通作戦時に付けられた臨時の略号「光」兵団という呼称もあります。
慰霊碑の裏面には、
一九八九年(平成元年)三月二十五日 建立
第三十七師団創立五十周年記念日)
第三十七師團慰霊碑建設奉賛会
会長 山中 貞則
とありました。
背後には仏像も鎮座しています。
そうそう、碑誌にある「軍馬」については機会があれば
ちょっと綴りたいと思います。
ワット・プラーンマニーに来た目的を済ますことができたので、
次の目的地に向かうとしますか。
来た時とは違う門から出てみます。
目の前にはだだっ広い無料駐車場を備えた土産物店群がそこかしこに。
衣服が目立ちますが、わざわざここまで来て買うんですかねぇ?
もうちょっとこの地ならではのものを売ったほうがいいようにも思えるんですけど…。
表の国道3049号線を目指しててくてく歩いているとまたもや牛さん模型が~。
遠くに山並みも見えて、なんとものどかな景色です。
こっちの参道沿いにも
入口まで延々と連なっています ^_^;)
途中でこんなものも発見!
これってシロアリの巣ですよね?
初めて実物を見ましたよ。
入口近くまで歩いてきたところで、でっかい観光バスが通過。
しかも2台も。
「バスを連ねて参拝に来る」ほどの人気ってにわかに信じられなかったんですが、
この光景を見て信じざるを得ませんでした。凄い人気ですね、ワット・プラーンマニー。
寺の門から歩いて5分で国道3049号線に出ました!
「お帰りの道中どうぞお気を付けて」と。
時刻は、11:36。
次の目的地は、目と鼻の先です(笑)
<交通費>
歩いただけなので:0バーツ
ここまでの合計:130バーツ
※旅は2013年8月16日(金)に行いました。
元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)
<参考>
『瀬戸正夫の人生(下)』瀬戸正夫著、東京堂書店、2001年
「長い旅路」『平和の礎』第3巻、独立行政法人平和祈念事業特別基金(PDF)
つづく
ブログを書く励みになります m(_ _)m
参拝を済ませた私は、お参りセット売店のところへ戻ります。
売り子のおばさんはニコニコしながら早速私を案内してくれます。
ここに日本人は来たりしますか?
「沢山来るわよ。日本の軍人だと思う」
まるで自分だけが知っている秘密を明かすんだとでも言いたげな顔つきで
私の目を凝視しながら教えてくれました。
自衛隊に違いない。
自衛隊の人達が連れ立って、今でも慰霊に訪れているんでしょう。
土産物店の連なる道を右にはずれたところで「ここよ」とおばさん。
あ、本当だ!
「これをお供えしてね」と花を差した花瓶を渡してくれました。
ありがとうございます。
花代と案内してくれたお礼も兼ねて100バーツ札を手渡そうとすると
断るではないですか。感謝の気持ちですと伝えてようやく受け取ってもらえました。
「じゃ、私は戻るね。サヨナラ」
さよなら ^^
最後は日本語で嬉しいじゃないですか~。
受け取った花をお供えし手を合わせます。
ここはというと、
第三十七師團慰霊碑。
白い祠の中に建っています。
なんでこんなところに? と思うかもしれませんね。
太平洋戦争の末期、インドの英印軍に打撃を与えるはずが逆に英印軍の
ビルマ進攻を許し退却することになったインパール作戦の大失敗の後、
日本陸軍はタイで英印軍を迎え撃つ作戦に変更を余儀なくされました。
バンコクでは連合国軍の爆撃が激しくなっていたこともあり、
陸軍は最終決戦の地をこのナコンナーヨックに定めたのです。
理由は、山があるから。
山間部に洞窟を掘るなどして要塞化を図ろうとしました。
タイ国内やビルマに展開していた部隊が続々とナコンナーヨックに集結します。
その中に第37師団もいました。
第37師団はなんと中国の山西省西南部普南からはるばる南進してきたのです。
途中ベトナムでは、フランス領インドシナからフランス軍を駆逐し、
ベトナム、カンボジア、ラオスを独立させる「明号作戦」(1945年3月9日)に参加、
成功に導きます。勇猛な師団だったそうで。
ナコンナーヨック入りした時の兵力は約1万。軍馬を3,100頭携えていました。
しかし英印軍との戦闘になる前に終戦。
この地に駐屯していた各部隊はそのままこの地で抑留されます。
と言っても大多数の兵は塀の中に囚われるでもなく、
畑仕事などをしながらのんびり暮らし、翌46年日本へ復員したのでした。
この碑は、第37師団の戦友会が、命を落とした兵と軍馬を慰霊するために
1989年3月25日に建立されました。
立派な慰霊碑です。
ふとなぜか天井が気になったので見上げると…
うわぁっ! 思わず声が出てしまいました!
右手に建っている碑誌を文字起こししてみます。
改行位置は原文どおりにましたが、読み易くするため段分けをしてあります。
日本旧陸軍 第三十七師團碑誌
第三十七師団(冬)は 一九三九年(昭和十四年)三月二十五日
九州で編成 中国山西省普南へ出征して警備に任じ 次いで一九四
四年春 中国縦断の大陸打通作戦に参加して南進した
すなわち中国運城から南へ征旅一万四百余粁 千山万岳を踏破し
仏印を経てタイに入り一九四五年夏 英印軍との最後の決戦に備え
てこのナコンナヨックに進出した 図らずも同年八月十五日終戦
点を仰いで長恨極まりなく武器を捨ててこの地に駐留し力尽きて倒
れし多くの兵馬をこの地に埋めて 一九四六年 故山に復員した
先の大戦において昔しくも戦没せし殉国の師団将兵七九二〇柱と
師団軍馬四三七六頭の精霊を祭り わずか七歳で消滅した歴戦の師
団と軍旗三旗を偲び 併せて大戦間失われし彼我幾多の犠牲を悼む
と共に 永遠なる平和への思いをこめて この碑を建てる
このナコンナヨックは 師団終焉の記念すべき地であり 師団が
ここに駐留間 タイ王国官民から賜わりし温かい友情と この碑建
設に尽力下されしナコンナヨック郡役所及びプランマニー寺のご厚
意に対し 深く感謝の意を表する そしてこの碑が 末永く日本と
タイ王国との親善の礎石となることを祈る
一九八九年三月二十五日(第三十七師団創立五十周年記念日)
第三十七師團慰霊碑建設奉賛会
師団創立50周年にあわせて建立したんですね。
ちなみに「冬」とは、第37師団の兵団文字符です。
兵団文字符は、師団や独立混成旅団などの大きな部隊に名付けられました。
元々は部隊名を秘匿するためのものだったのが、愛称的に用いられたりもしたようです。
ちなみに第37師団には「冬」兵団のほかに、
大陸打通作戦時に付けられた臨時の略号「光」兵団という呼称もあります。
慰霊碑の裏面には、
一九八九年(平成元年)三月二十五日 建立
第三十七師団創立五十周年記念日)
第三十七師團慰霊碑建設奉賛会
会長 山中 貞則
とありました。
背後には仏像も鎮座しています。
そうそう、碑誌にある「軍馬」については機会があれば
ちょっと綴りたいと思います。
ワット・プラーンマニーに来た目的を済ますことができたので、
次の目的地に向かうとしますか。
来た時とは違う門から出てみます。
目の前にはだだっ広い無料駐車場を備えた土産物店群がそこかしこに。
衣服が目立ちますが、わざわざここまで来て買うんですかねぇ?
もうちょっとこの地ならではのものを売ったほうがいいようにも思えるんですけど…。
表の国道3049号線を目指しててくてく歩いているとまたもや牛さん模型が~。
遠くに山並みも見えて、なんとものどかな景色です。
こっちの参道沿いにも
入口まで延々と連なっています ^_^;)
途中でこんなものも発見!
これってシロアリの巣ですよね?
初めて実物を見ましたよ。
入口近くまで歩いてきたところで、でっかい観光バスが通過。
しかも2台も。
「バスを連ねて参拝に来る」ほどの人気ってにわかに信じられなかったんですが、
この光景を見て信じざるを得ませんでした。凄い人気ですね、ワット・プラーンマニー。
寺の門から歩いて5分で国道3049号線に出ました!
「お帰りの道中どうぞお気を付けて」と。
時刻は、11:36。
次の目的地は、目と鼻の先です(笑)
<交通費>
歩いただけなので:0バーツ
ここまでの合計:130バーツ
※旅は2013年8月16日(金)に行いました。
元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)
<参考>
『瀬戸正夫の人生(下)』瀬戸正夫著、東京堂書店、2001年
「長い旅路」『平和の礎』第3巻、独立行政法人平和祈念事業特別基金(PDF)
つづく
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