ようやく辿り着いたバーン・カーイ3の看板を
まじまじと眺めます。


バーン・カーイ3の看板


かつてこの地にあり、終戦直後に約1年間日本人を収容した
バーンブアトーン収容所について書かれた本は、
研究書も含めてあまり多くないようです。

タイの東京堂書店発行の『瀬戸正夫の人生(上)・(下)』瀬戸正夫著に
バーンブアトーン収容所での生活が記されていますが、ほぼ絶版状態。
私も辛うじて下巻を入手できただけです。


あとは、どこで読んだのか失念しましたが、
女優の浅丘ルリ子さんが「バーンバトーン」に子どもの頃いたと
答えている記事を読んだことがあります。

時期・期間から考えてもこの収容所にいらっしゃったことは間違いないでしょう。

その浅丘ルリ子さんの半生を綴った本、

 

 『RURIKO』 林真理子、角川書店 税込1,575円

には、満州での生活には紙幅を割いているのに、
なぜかタイ滞在時の記述はほんの数ページ。

バーンブアトーン収容所については勿論、タイから引き揚げる際の描写も一切なく、
いきなり東京に飛んでいます。


研究書では、早稲田大学アジア太平洋研究センター発行の
『アジア太平洋討究』創刊号(2000年)に掲載された、
「日タイ関係 1945-1952年 -在タイ日本人及び在タイ日本資産の戦後処理を中心に-」
村嶋英治、という論文が、経緯を詳細に掘り起こしています。


タイ語書籍では、
『タイ・日交流120年:東アジアと東南アジア(1887-2007)』との
日本語の副題のついたこの本掲載の論文の一つで、収容所のことが
当時の写真付きで触れられています。

その写真の一つに、ドラム缶を大きくしたような給水塔のまわりで
人々が作業している当時の様子の写真があります。

そしてその注釈には、
「現在も残るバーンブアトーン収容所のものは、古い給水塔」と。

本当に残っているんでしょうか?
現在の写真があわせて掲載されているワケでもないので、
どうも信憑性がありません。

ただ、もし残っていたらなぁ、という淡い期待を抱いて
ここに来たのは事実なんですが・・・。

歩きがてらあたりを見回しつつ捜してみますか。


ピモンラート2の売店の兄ちゃんによると、
バーン・カーイ3は広くてムーバーン(住宅街)がいくつもあるとのこと。

どこからどこまでがバーン・カーイ3か分かりませんが、
恐らく100mほど西にある先ほどの中国寺院の建ってるところも
バーン・カーイ3なんでしょう。


看板の向かいのソイを北上してプラピモンラーチャー運河まで
出てみることにしました。


バーンカーイ3の看板向かいのソイ


辺りには人家やムーバーンがところどころある以外は、
ほとんどが草地・藪・林です。


藪・・・


この背の高い藪を見て、遺構探しの期待は、
早くもしぼんでしまいました(汗)

例え何か残っていても、こんな藪の中から見つけ出すのは
至難の業です。気の遠くなるような広さですし・・・。


ソイを奥まで進んで振り返ってみました。


バーン・カーイ3付近


日差しを遮るものがないので、暑いです(汗)


奥にあった人家の表札を見ると、
明らかにムスリムな名前が書かれていました。

やっぱりこの辺りにはイスラム教徒が多いようですね。


ようやく、プラピモンラーチャー運河に出ました。


プラピモンラーチャー運河


うわ~っ!!
なんてのどかで素晴らしい景色なんだー!!


取り敢えずピモンラート町役場方面を目指して、
運河沿いの遊歩道をてくてくと歩き始めました。




<交通費>
歩いただけなので:0バーツ
ここまでの合計:157バーツ


※旅は2009年10月31日(土)に行いました。


つづく


バーンカーイ3看板~プラピモンラーチャー運河