タイ~バンコク周辺バス日帰り旅~

タイ・バンコクや近県をバス、ソンテオなどの公共交通機関だけで日帰り旅をした様子を綴る旅行記です。
タイ料理屋台から水上マーケット、百年市場、日本の残した足跡まで無鉄砲に飛び回っています。 ※楽天ブログ『タイとタイ語に魅せられて』の1日旅の記事だけを抜粋しました。

2014年12月

プラナーラーイ宮殿(ナーラーイ王国立博物館) ロッブリー日帰り旅[4]

市場の路地から広い通りに出てみると、
白い城壁らしきものが続いているではないですか。


04_01


まるで王宮みたいですね。
ん、もしやナーラーイ王が造営したとか?
事前に下調べしていないとこんなもんです ^_^;)


04_02


ここが入口のようで。

SOMDET PHRA NARAI NATIONAL MUSEUM
とあるので、
プラプラーン・サームヨート係員オススメのミュージアムとは、
ここのことっぽいですね。入ってみましょう。

右手の受付で拝観料を支払います。
タイ人10バーツ、外国人30バーツ…。
観光地は仕方ないですね ^_^;)

入口そばに立つ案内板を読むと…

アユタヤ王朝第27代のナーラーイ王(在位1656-88年)が
フランス&イタリア人技師に共同でロッブリーに王宮を造営させ
1666年に完成したとあります。

それがここなんですね。

ナーラーイ王の死後、荒廃した王宮を1856年にラマ4世が修復し、
プラナーラーイ・ラーチャニウェート」(พระนารายณ์ราชนิเวศน์ )と
名付けたんだとか。

ラーチャニウェートとは都以外の地の宮殿のこと。
なのでプラナーラーイ宮殿ってなところでしょう。


04_03


貯水池や倉庫の跡を左に見ながら、真っ直ぐ整備された歩道を歩いていくと、


04_04


もう一つの門が。

その奥に見える仏堂風の建物内からまずは見学するようです。
サンダルを脱いで階段を上がると目に入ったのは、


04_05


ナーラーイ王の像でした。

アユタヤ王朝の中でもとくに外国との貿易に力を入れた
ナーラーイ王時代にちなみ、この館内には王治世の
外国との関係についての展示がなされているようで。


04_06


例えばこれは、フランスのルイ14世使節がアユタヤでナーラーイ王に
謁見した際の絵。当時のフランス人による線描画を元に描き直したものだとか。

逆にナーラーイ王もフランスに使節を派遣しています。

なんでもオランダ東インド会社が貿易を独占しようと、
チャオプラヤー川河口を封鎖して脅しにかかった事件があったそうな。

結局オランダの企みは失敗。でもオランダの報復を危惧したナーラーイ王は
フランスに近付いたということなんだそうです。

ロッブリー
に副都を築いたのも、有事の際に都の機能を移すためという
理由もあったようで。


さて、外国との関係と言えば、我が日本も。


04_07


これは、ナーラーイ王治世の1681年にアユタヤのワット・ヨム壁画に描かれた
日本人義勇軍の姿。原画は1893年に保存のために剥がされたものの、
その甲斐空しくのちに完全に崩れてしまい現存せず。

山田長政没後51年経っていますが、日本人はまだアユタヤの国政で
ある程度の役割を担っていたと、この絵の解説にありました。

ナーラーイ王即位に際して争いがあったのですが、動員された
外国人部隊のうち日本人はペルシャ人に次ぐ規模の人数だったとか。

中央に掲げられた日の丸に身が引きしまる思いです。

ナーラーイ王治世で日本人以外の外国人も国政に重用されました。
その中で、もっとも有名なのがギリシャ人のフォールコンです。

ジャワのイギリス東インド会社で働いたのち、アユタヤの大蔵省商品大蔵局で
職を得ます。そこは貿易を担う部署。有能だったことからナーラーイ王の寵愛を
受け、見る見るうちに大蔵省の長に出世。

大きな権力を背景に親仏政策を取ったことから
旧勢力の中国人商人達から妬まれ、
ナーラーイ王が晩年臥している機に乗じ、
アユタヤをフランスに売る売国奴として処刑されてしまいました。

1687年、40歳の若さででした。

ちなみにフランス使節のナーラーイ王謁見の絵で、
左下にひれ伏しているのが、フォールコンです。

驚いたことに、ここにはそのフォールコンの遺品が展示されていたんですよ。


04_08


フォールコン居館跡で見つかった什器との説明です。

私はフォールコンは知っていたので、
遺品を期せずして見ることができ、思わず感動。


フォールコンの妻がまた興味深いんです。Marie Guimarという名
(タイ名はターオ・トーンキープマー ท้าวทองกีบม้า)なんですが、
なんと日本人・ベンガル人・ポルトガル人混血の人物でした。

タイ・スイーツのフォイトーントーンヨートは、
フォールコン死後、彼女がアユタヤ宮廷に作り方を伝えたものなのです。

フォイトーンは、日本の鶏卵素麺(けいらんそうめん)に瓜二つ。
平戸出身日本人である祖父から教わったのかもしれませんね。

と言うのも、福岡の元祖鶏卵素麺松屋さんも、
「初代当主、松屋利右衛門は長崎の出島を訪れた際、
鶏卵素麺の製法を伝授されたと言われて」いるとのことなのです。

17世紀後半と長崎という共通点。2つの繋がりが濃厚です。


なんだかロッブリーの旅というより歴史の旅ですね、今回は(笑)


さらに進むと、あっ、この帽子!


04_09


入口像もフランス使節謁見の絵もそうですが、
ナーラーイ王は決まってこの帽子を被っているので気になってたんですよ。

ナーラーイ王期に官僚が被ったもので、プロシアの帽子デザインの
影響を受けたと推定されているとのこと。
帽子の縁の装飾によって階位が分かるようになっていたそうです。


ひととおり見て、次は隣の2階建ての建物に移ります。

1階は、アユタヤ時代より前のドヴァーラヴァティー時代や
クメール時代(ロッブリー時代とも言います)の出土品の展示。


04_10


いつの間にやら猫ちゃんがまとわりついて離れません(笑)


04_11


これは7~8世紀に南インドのパッラヴァ・グランタ文字で刻まれた
パーリ語碑文だとか。うーん、読めたら面白いだろうなー。

仏像や碑文の出土品が無造作に展示されているのを眺めつつ、
次は2階へ。王宮を修復したラマ4世ゆかりの品の展示スペースでした。


そしてさらに隣にはこんな遺跡が。


04_12


ナーラーイ王滞在時に、外国使節の謁見に使用していた建物だとか。


これでひととおり見学し終えたはず。
確かにここは見ごたえがありました。
歴史好きの人だったら楽しめること間違いなしです。


04_13


1688年にナーラーイ王が崩御した地でもあるプラナーラーイ宮殿
そろそろ後にするとしますか。

時刻は、12:05。1時間10分もいたんですね。

入口へ向かって戻ります。
次は商店街でも歩いてみるかな。





<旅費交通費>
歩いただけなので:0バーツ
ここまでの合計:50バーツ

※旅は2014年6月19日(木)に行いました。

<参考>
「パイパイマーマー(31) 港市国家アユッタヤーはだれが支えたのか?-「外来人国家」-」,赤木攻,『タイ国情報』2010年7月号,日本タイ協会,2010年
Wikipedia "พิพิธภัณฑสถานแห่งชาติ สมเด็จพระนารายณ์"
ウィキペディア "ターオ・トーンキープマー"

元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)

つづく


プラナーラーイ宮殿

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プラプラーン・サームヨート~ロッブリーのシンボル ロッブリー日帰り旅[3]

プラカーン廟西側目の前には国鉄線路の踏切があり、
その向こう側には、ロッブリーのシンボルとも言える


03_01


プラプラーン・サームヨート(พระปรางค์สามยอด)が聳えています。

行ってみましょう。


03_02


入口階段を上った左にチケット売り場がありました。

タイ人10バーツ
外国人50バーツ

との料金表示が。

外国人です、と告げると、受付の男性がキョトンとした顔をして、

「タイ人じゃないの? どこの人? なんでタイ語話せるの?」
とまたまたお決まりのパターン(笑)

バンコクでタイ語を学んだことがあるんですと、
これまたいつもの説明をすると興味を持ったようで、
わざわざ小屋から出てきてロッブリーの見どころを
親切にも色々と教えてくれました。

「ミュージアムには行った? 素晴らしいからぜひ行ったほうがいいよ」

そこまで言うなら後で寄ってみますか。


03_03


これが外国人用チケット。

プラプラーン・サームヨート
とは「三頂仏塔」の意味。

案内板によると12世紀、クメール王国最盛期の王ジャヤヴァルマン7世に
よってバイヨン様式で建てられた大乗仏教寺院なのだとか。

大乗仏教とは意外ですね。

で、3つの仏塔の前側に17世紀、アユタヤ王朝のナーラーイ王が
仏堂を後付けで建てたのだそうで。


03_04


確かにこの右側の仏堂の壁は3つの仏塔と石材が違って見えますもんね。


03_05


うわっ、ここにも猿がうじゃうじゃ。


03_06


親猿が子猿の毛づくろいをしています。
かわいいなー。

さすがに学習して、飛びかかられないように間合いを取って観察(笑)

見事なクメール寺院遺跡が目の前にあるというのに、
私の興味はもっぱら猿たちに注がれたのでした。


03_07


南側を眺めたところ。柵上にも猿が。

ちなみに左端がさっきのプラカーン廟

その前のクリーム色の門には「ナーラーイ王陸軍基地」との文字が。
この数百メートル東に基地ができた時に建てられたんでしょう。
1937年との銘板がはめられていました。

目の前を真っ直ぐ南へ行くとロッブリー駅です。


03_08


お、こっちにも親子猿が ^^

ロッブリー
中心部には、主にナーラーイ・マハーラート通り沿いに
4つの大群と4つの小群の計2千匹の猿が生息しているそうです。

そんな中、今年7月にロッブリーの猿保護団体が、
「当局が猿を多数捕獲したために生息数が減った」とマスコミに訴える
出来事がありました。

対して当局は、捕獲したのは苦情が寄せられたケースだけで、
凶暴な性格の50匹程度。ロッブリー動物園に移送して森に放すか協議中、
との説明でした。

でも住民からも目に見えて猿の数が減ったとの声もあり、
ちょっとした疑惑に発展しているようです。


03_09

これだけ数が多いと交通事故に遭ったり、電線を噛んで感電死したり、
犬に襲われて大けがを負ったりする猿も毎年多く出るそうで。

さらに住民の物を盗んだり、体を噛んだりするので
中には頭に来て猿目がけて発砲する人もいるんだとか。

人と猿の共存はなかなか難しいようですね。

猿目当てで訪れる観光客の存在が、なんとか今の状態を
保たせている側面もあるようです。


03_10


こらっ、イタズラが過ぎると捕まっちゃうぞ(笑)


プラプラーン・サームヨート
を後にして、
ナーラーイ・マハーラート通り沿いに西へ歩いてみます。

ところどころで猿を見かけますね。


03_11


あっ、左手にも遺跡が。
遺跡前の路地に入っていきます。

案内板には、プラーンケーク礼拝所(เทวสถานปรางค์แขก)と。
プラーンケークは訳せば「インド人の塔」ってなところでしょうか。

元は10世紀に建てられたバラモン・ヒンドゥー教施設だったのを
17世紀のナーラーイ王時代に修改築されたものだとか。

こんな遺跡が旧市街に点在しているんでしょうね~。

お、頭上の電線に猿が一匹。
少ないけどこの辺にもいるのか。


路地をそのまま南下すると、商店街に。

振り返ってみます。


03_12


町に溶け込んだ遺跡ってものいいもんですね。

ちなみに私の左手には、


03_13


市営生鮮市場が。
路地沿いに長く続く市場で結構賑わっています。

ところで、ミュージアムはどこにあるんだろう。
たぶんそろそろ近いはずなんですが。

時刻は10:48。




<旅費交通費>
歩いただけなので:0バーツ
ここまでの合計:50バーツ

※旅は2014年6月19日(木)に行いました。

<参考>
Post Today "ร้องลิงลพบุรีกว่า2พันตัวถูกจับหายปริศนา" 2014年7月14日付
Post Today "ลิงลพบุรีชะตากรรมวันนี้ช่างน่าเศร้า" 2014年7月18日付

つづく

元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)


つづく

プラプラーンサームヨート

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ロッブリーといえば猿だけど… ロッブリー日帰り旅[2]

列車からロッブリー駅のホームに降り立ちました。


02_01


とりあえずホームを列車進行方向へと歩いてみますか。

すると左手に、


02_02


遺跡のミニチュアが。

ロッブリーはクメール遺跡で有名だもんな~なんて思いながら、
視線を上げてみてビックリ。真後ろに本物の遺跡が見えるではないですか!

なんと駅の真ん前にあるのか。
あとで寄ってみましょう。


さらにホームを歩くと、やはり左手に


02_03


バンコク行きロッ・トゥー乗り場があんなところに。
帰りはあれを利用しようかな。


ホーム端近くまで歩きます。


02_04


駅名看板の右にも遺跡が見えますね。
あそこへまずは行ってみましょう。

線路伝いに向かうと、


02_05


思ったより大きな遺跡でした。
案内板には、ワット・ナコーンコーサー(วัดนครโกษา)とあります。


ロッブリーの歴史はかなり長いんですよ。

タイ族がやって来る前の6~11世紀に存在したモン族の
ドヴァーラヴァティー王国がラウォーという名の都市をここに築いていました。

ラウォーはサンスクリットで「水」の意味の「ラワ」に由来との説が有力。
で、ラウォー・ブリー(ラウォーの都)が訛ってロッブリーになったんだとか。

その後11~13世紀は、クメール王国(真臘)が断続的に支配。
アユタヤ時代の17世紀にはナーラーイ王がロッブリーを副都とします。

その後衰退したのち、19世紀に現王朝のラマ4世が
ナーラーイ王時代の王宮跡を整備、20世紀半ばのピブーン政権時代に
都市計画設定・軍隊配置をして町を復興し、現在にいたっています。


前置きが長くなりましたが、このワット・ナコーンコーサー遺跡
そんなロッブリーの長い歴史を反映しているのです。

左のこんもりした遺跡がドヴァーラヴァティー時代、
中央の本堂と右の仏塔がアユタヤ時代、
写真には写っていませんが、さらにクメール時代の仏塔もある
歴史のロマンを感じさせる遺跡となっています。

うーん、ただ曇り空なのが残念!


さらに線路伝いに北へと歩くと、


02_06


ナーラーイ・マハーラート通りのロータリーに出ました。

ロータリーの中央には廟が見えますね。何だろ?


02_07


プラカーン廟(ศาลพระกาฬ)と書いてあります。

案内板を読むと、11~13世紀にクメール様式で建てられた仏塔の基礎部の上に
アユタヤ時代にビシュヌ神を祭る廟を建てたものだそうで。

現在の廟は1933年築のものだとか。

狛犬ならぬ
猿が鎮座していますね ^^
さすが「猿の町」として有名なロッブリーだけのことはあります。

ところでその猿は一向に姿を見かけないんですが…、
と思いつつ右手から裏に回ってみると、


02_08


うはっ、いたいた。猿がいっぱい!

しかもあれがクメール様式で建てられた仏塔の基礎部ですね。

帰ってから調べたところ、元々プラカーン廟の周囲には木が多く茂り、
そこに住む猿が廟のお供え物のフルーツなどを食べにくるようになって
この一帯に住み着き、数が増え、「猿の町」となったんだそうです。


でも今ではお供え物ではなく、


02_09


猿用のエサ場が設けられているのでした。

猿保護のためというより、こうしておかないと
参拝客が猿に襲われるからかも ^_^;)

さらには、


02_10


水飲み場まで。子猿が気持ち良さそうに泳ぎまわっています。
かわいいな~。思わずカメラを向けると…

手前の子猿が飛びかかって来た!!

それを合図にさらに1匹、2匹と私目がけて飛んできてぶら下がります。


02_11


ぎょえ~!!
こら、髪を引っ張るな! イテテテテ…(>_<)

我慢できずに売店のおばちゃんに助けを求めます。

おばちゃんが手にした長い棒をテーブルにバン!と打ちつけると、
猿たちは一目散に逃げていったのでした。

ふぅ~、助かりました。 ありがとうございます m(_ _)m


気を取り直して廟にお参りしておきましょう。
階段を上がると、


02_12


奥に金箔を貼られまくった像が。

元は真っ黒のクメール様式像だったそうなんですよ。
しかも頭と腕がありませんでした。

ある日住民の夢にでてきて、できる限りでいいから頭と腕を探してほしいと
頼んだのだとか。それで住民がアユタヤ様式の頭部をどこからか工面してきて
くっつけた…という言い伝えがあるんだそうで。

腕もヴィシュヌ神らしく4本ありますね。


参拝を済ませ階段を下りると、ちょうど目の前の踏切が閉まって
警告音が鳴り始めたところ。

通過する列車の写真でも撮るとするか。
踏切前まで急いで寄ってカメラを構えて待っていると


02_13


はぁ???

簡素な作業車が、似合わない猛スピードで通過。

思わずズッコケそうになったのでした(笑)





<旅費交通費>
歩いただけなので:0バーツ
ここまでの合計:50バーツ

※旅は2014年6月19日(木)に行いました。

<参考>
จังหวัดลพบุรี "ประวัติจังหวัดลพบุรี"
Wikipedia "ศาลพระกาฬ"

つづく

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プラカーン廟

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列車でロッブリーへ ロッブリー日帰り旅[1]

6月のバンコク滞在時、急に丸一日空いたので旅をすることに。
でも予定外のため行き先のプランを準備してなかったんですよね。

うーん、どこに行こう ^_^;)

悩んだ挙句、サクッと行けて旅をした気分に浸れそうな
ロッブリーにエイヤッと決定。


まずは場所をグーグルマップから拝借した地図で確認しましょう。


ロッブリー地図


ロッブリー県はバンコクから国道1号線パホンヨーティン通りを北上すること
約155kmに位置する人口90万人ほどの県です。

ロッブリー
中心部は、地図上「ロッブリー」の「ブ」の字の辺り。

そこまで国鉄に揺られて行こうではないですか。


決行日は2014年6月19日(木)。
まずは29番の赤バスでフアランポーン駅へ向かいます。


01_01


ラマ4世通りからフアランポーン駅舎の真ん前まで
乗り付けてくれるんですね。06:45到着。

下車したところで前を歩くおばさんに目が点。


01_02


マルカン酢???

マルカンはタイに事業所を設けてないはず。

あまりにも気になったので後で調べたんですが、このTシャツは
ユニクロが2006年にマルカンとタイアップして販売したものでした。

でもですよ。ユニクロのタイ1号店オープンは、2011年9月。
つまりマルマン酢Tシャツ販売終了後4年あまり経過しているのです。

おばさん、どこでゲットしたんですか!
いまだに気になって仕方ありません(笑)


さて、本題に戻ります。

フアランポーン駅
内に入りますか。


01_03


窓口で「ロッブリー」と告げ切符を購入。
50バーツ也。

「9番線」と言われたので向かうと、


01_04


お、これだ。
07:00発デンチャイ(เด่นชัย)行きですか。


01_05


最後尾は荷物車なんですね。
郵便物かな?


乗り込んで待つと、15分遅れで出発。

車内は結構ガラガラで、すぐに検札がやってきました。
半分に折ってパチン。


01_06


このスタイルがデフォのようですね。


01_07


左側の車窓には線路沿いにずっと工事の光景が続いています。
高架鉄道の建設なんでしょうね。


フアランポーン
を出発して1時間42分で、


01_08


アユタヤ駅到着。
時刻は、08:57。

わんさと人が乗り込んできます。


01_09


のどかな景色の中をさらに北上していくと、
サラブリー県バーンモー駅(บ้านหมอ)手前で
右、つまり東側の車窓に


01_10


山が出現。
ナコンナーヨックからサラブリー南東部に連なる山々に違いありません。

旧日本軍が最終決戦地として選び、現在陸軍士官学校となっている場所も
あの一角のはず。以前訪れたのが懐かしいです。


そんなこんなでボーッと景色を眺めながら揺られていると、


01_11


ロッブリー駅に入線しました!

車内アナウンスが無いから気が気じゃないですよね(笑)
時刻は、10:03。フアランポーン駅から2時間48分でした。

おっと、のんびりしていられない。
降りなければ。





<旅費交通費>
29番バス:0バーツ(無料バスでした)
列車:50バーツ
ここまでの合計:50バーツ

※旅は2014年6月19日(木)に行いました。 つづく
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ノックエアーでドンムアン空港着 ウドンタニー日帰り旅[最終回]

搭乗したウドンタニー空港15:35発のノックエアーDD9213便は、
順調にドンムアンへ向けて飛行を開始。

CAさんの機内アナウンスを耳を澄ませて聴いていると、
タイ語のアクセントがちょっと変なのに気付きました。

さらに否定語(~ではない)のไม่(マイ)をบ่(ボ)と
言っているではないですか。

なんと、イサーン語訛りでの機内アナウンスでした。
やりますね、ノックエアー(笑)


09_01


機内食は往路と同じくAuntie Anne's。

今回は濃厚なチョコでコーティングされたプレッツェルでした。
これがなかなかに美味しいのです ^^


山並みの景色だったのが、バンコクへ近付くにつれて、


09_02


地平線の先まで広がる田園風景に!

インラック政権の間はコメ輸出量が世界2~3位に落ちていたものの、
今年は悲願の1位に返り咲いたコメ輸出国タイの原風景と
いえるのではないでしょうか。


そして同じ形の家々が建ち並ぶムーバーン(新興住宅街)の
上をかすめて、 ドンムアン空港にほぼ定刻16:35のとおりに着陸。

空港内に移ると、


09_03


うおー、懐かしい!!
そう、こうでしたよドンムアン空港って。

やばい。涙が出そうですよ。


さらに追い打ちをかけるように、


09_04


sawasdee」が昔のまんまじゃないですか! (>_<)

タイに通い始めた頃の思い出が走馬灯のように勝手に頭をよぎります。

この部分って今は国内線で使ってるんですね。


ゲートを出た先の光景も同じ。
もちろん、


09_05


アマリ・エアポートホテルやバス停、国鉄駅へ向かう
歩道橋へのエレベーター乗り場も昔のまんま。

それじゃぁ昔のまま上がってみますか。


09_06


記憶に従って右手の扉を開けます。
正面の階段は下りずに、


09_07


外側の連絡通路を渡って、


09_08


国鉄ドンムアン駅にやって来ました。

実はこの駅に来るの初めてなんですよ。
以前はタクシーかエアポート・バスばかりだったので。

時刻表をチェックすると数十分後の列車があるものの、
駅構内アナウンスが流れ、その列車は到着が遅れるとのこと。

うげ、待ちきれないので計画変更。
路線バスにしますか。


連絡橋を戻って、ウィパワディー・ランシット通りへの階段を下ります。


09_09


階段の先でタクシーが客待ちしているのも変わりませんね~。
でも以前はこんな柵は無かったはず。

まだ先へとずんずん歩いていきます。

すると、


09_10


バス停に到着。
間もなくして、やって来ました。


09_11


29番エアコン・バス。
これでBTSモーチット駅まで揺られていきますか。

時刻は、16:59。

モーチット駅下には、17:33に到着しました。


というわけで、今回の旅もこれにて完結です。

日帰りでのウドンタニー旅行は慌ただしくなるかと予想したのですが、
幸か不幸かあまり見どころが無かったので、
ちょうど時間的には良い塩梅でした。

巨大アヒルがいなかったのが残念でしたが、
有名店2店でウドンタニー名物の料理を食べられたから満足です ^^


次回は、鉄道を使ってやや遠出した旅をお届けしようと思います。
後半うっかり散々な目に遭ってしまいましたが、どうぞお楽しみに!





<旅費交通費>
29番エアコンバス:16バーツ
ここまでの合計:3,358バーツ

※旅は2014年5月15日(木)に行いました。

元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)


おわり

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