強烈な日差しを遮るものがまったくない中を歩いて
「独立と自由のラマ5世像」の前まで来ました。

独立と自由のラマ5世像


早速上ってみます!


見上げてみたラマ5世像


チュラロンコン大学と同じマーク(?)が。
ラマ5世=チュラロンコン大王ですから当然と言えば当然ですが、
ちょっと嬉しくなりました。

そして、像の後ろ側へ回って下を見下ろすと・・・ありました!


プラジュン要塞

この一帯の地名の由来となった「ポム・プラジュン」です!

正式名称は、「ポム・プラジュンジョームクラオ」
ポムは「要塞」。
プラジュンジョームクラオは、ラマ5世のもう一つのお名前。

なので、意味的には「ラマ5世要塞」となります。
でもここでは、通称に合わせて「プラジュン要塞」と呼ぶことにします。


早速下に降りて向かってみます!


プラジュン要塞入口


入口の石碑には、築造工事の遅れを見たラマ5世が
王庫の国王財産から資金を提供して
工事を急がせたということが刻まれています。


1893年完成という、この要塞の入口をくぐると、


プラジュン要塞に入ってみると意外な景色が


そこには、まるでスペインのアルハンブラ宮殿にでも
迷い込んだかのような光景が!!
(あ、行ったことないですけど。想像です 汗)

さらに進んでみます。
この先には狭いトンネルが伸びていて、


トンネルを抜けると…


暗いトンネルを抜けると…


大砲が!!


ジャーン!
巨大な大砲が現れました!!

プレーンファイファー要塞の大砲とは比べ物になりません!

イギリス製のアームストロング砲というんだそうです。
当時最新式でタイに輸入された10門のうち7門が
ここ、プラジュン要塞に配備されたんだとか。


アームストロング砲


この大砲、実は実戦で使われた歴史があるのです。
時は要塞の完成と同年の1893年7月13日夕刻。

チャオプラヤー川を遡上しようとしたフランス軍艦2隻との間で
砲撃をし合いました。プラジュン要塞は全門で総攻撃をかけて
フランス軍艦に損害を与えたのです。

しかし遡上を食い止めることはできず…。
いわゆる「パークナム事件」です。
タイでは「ラッタナコーシン暦112年危機」と呼ばれています。

この結果、タイは多くの領土をフランスに割譲することになります。
しかしその代りに独立と自由は守ったのです。

ラマ5世像の名の由来は、そこから来ているのでしょう。


そんな歴史的な活躍をした大砲の横のはしごを昇って
外に出てみます。


大砲はこんなトーチカ内にあります


こんなトーチカの中に大砲は収められているんですね。


歴史的価値のある要塞を興奮とともに十分に満喫できました。
個人的なことですが、パークナム事件は私の修士論文でもちょっと触れたので、
この地に来ることができ、とても感慨深いです。


さて、次に進みましょう。
もう一度ラマ5世像に上って確認します。


次に向かう場所は、あそこです!


次はあそこ!!



<交通費>
徒歩なので:0バーツ
ここまでの合計:108.5バーツ


※旅は2008年12月30日(火)に行いました。


つづく・・・


ラマ5世像とプラジュン要塞