バンコク周辺一日旅「見どころ満載アユタヤ遺跡の東端」で
アユタヤ日本人村を訪れた様子を綴った際(日本人村に到着」)に、
意図的に触れなかったことが一つあるんです。

それは、日本人村に足を踏み入れてまず目に飛び込むこの石碑、


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「アユチヤ日本人町の跡」の文言についてです。


なぜアユタヤではなくてアユチヤなんだ?

見た人はみなきっと疑問に思うのでは? 私も最初にツアーで訪れた際には、
どうせタイ人に彫らせたから間違えたに違いない、なんて思ったものです ^_^;)


でもこれ、間違えたわけでは勿論無いんですよ。
というのも、かつて日本でアユタヤアユチヤと呼ばれていたからなんです。

例えば1937(昭和12)年9月発行の財団法人暹羅協会会報第8号には
次のような文章が見られます。


此機に際し三百年前の快男児長政の記念碑を旧都「アユチヤ」の一角に建て
旧事を追懐すること、一は暹羅国人をして長政の偉動を追想して、我日本民族
の古武士精神に対する憧憬の念を増さしむると同時に、…

(※旧字を現代文字に直してあります。)


これは当時、この地に計画された山田長政記念碑建設事業を報じた内容の一部です。

あ、そうそう。当時のタイの国名はサヤームで、
日本では暹羅(シャム)と呼ばれていました。


そもそもこの日本人村の地は、1935年設立の日暹協会(現、泰日協会)が
設立後まもなくの頃に、アユタヤ時代に日本人村のあった地域の土地を購入し、
簡素な長政祠を建てていた場所。

で、祠の前には日本人会や青年会の協力で「記念標」(これがこの碑か?)と
日本式鳥居も建てられていました。


そして1937年、日暹修好50年記念に、上記引用文のとおりこの地に
山田長政記念碑を建てようという計画が持ち上がります。

なんと約16メートルの高さでオベリスク状のものという立派な記念碑です。
しかし日中戦争が勃発して頓挫。

その後日本の南進政策や太平洋戦争開戦を受けて日タイ関係が緊密になるにつれ、
再び計画が盛り上がり、1943年、再度記念碑建設が決定されます。

が、日本の敗色が急速に濃くなり、
結局この記念碑建設事業は日の目を見ませんでした。


…と話が逸れましたが、戦前~戦後直後の頃、
日本では一般的に「アユチヤ」と呼ばれていたのです。


ではなぜ「アユチヤ」だったのかですが、


・・・はっきりしません(汗)


可能性としては、アユタヤの名の由来となったインドの古都アヨーディヤーとの
混同も考えられるかもしれません。

今でもTibetをベット、Putinをプーンと言いいますが、
とくに昔は「ティ」音を「チ」と表記していたようなので、
アヨディヤ→アユティヤ→アユチヤ
とか。うーん、ちょっと苦しいですかね? ^_^;)

あるいは当時の英語読みも「ディ」か「ティ」だったのかもしれませんね。
アユタヤ時代にポルトガル人が作成したアユタヤ地図には「Iudea」と
書かれていますし。


いつ頃「アユタヤ」に変わったのか調べ切れませんでしたが、
少なくとも昭和20年代半ばまでは「アユチヤ」と呼ばれていたようです。

この碑は、そんな時代に建てられたために「アユチヤ」になっているのです。


かつてはソンクラーをシンゴラと呼んだり、
今でもスラウォン通りをスリウォン通りと呼んだり…。

日本語でのタイ地名表記には不思議に思う点が時々ありますね。



<参考>
『財団法人暹羅協会会報第8号』1937年9月
『財団法人日本タイ協会会報第35号』1943年8月
「バーンコークの日暹協会」天田六郎、『財団法人日本シャム協会会報第48号』1948年4月