タイ~バンコク周辺バス日帰り旅~

タイ・バンコクや近県をバス、ソンテオなどの公共交通機関だけで日帰り旅をした様子を綴る旅行記です。
タイ料理屋台から水上マーケット、百年市場、日本の残した足跡まで無鉄砲に飛び回っています。 ※楽天ブログ『タイとタイ語に魅せられて』の1日旅の記事だけを抜粋しました。

バンコク首都城壁を探せ!<2009年>

バンコク首都城壁を探せ! [1]

かつて、タイ国内の大きめの街は、たいてい城壁で囲まれていたそうですね。
コラートしかり、チェンマイしかり、ペッチャブリーしかり。

首都のバンコクも、もちろんそうでした。

ラマ1世の時代に、ラッタナコーシン島のチャオプラヤー川に面していない
北~北東~東の部分に、全長約7キロの城壁が築かれたそうです。

この城壁内が、元々のバンコク。
江戸の朱引みたいな感じでしょうか。


この城壁ですが、その後、道路や住居の建設のために
ほとんどの部分が破壊されてしまいました。


私が持っているタイで出版されたバンコクのガイドブックには、
今や1か所に残るのみ、と書かれています。


さて、本当にそうなのでしょうか!?


偶然も重なって、その疑問を晴らすことができたので、
今回、バンコク首都城壁について書きたいと思います。


まずは、その本に紹介されていた「唯一」現存するという
城壁の場所へ…。

ちょっと前ですが、昨年7月某日に行ってみました。


そこは、ラチャダムヌーン通りの始点にあります。

パーンファーリーラート橋を渡ると、
まず目に飛び込んでくるのは、


マハーカーン要塞


城壁の端に鎮座する、マハーカーン要塞です。


ラッタナコーシン島のチャオプラヤー川と城壁沿いには14の要塞が築かれました。
ここは、現存する要塞2ヶ所のうちの1つです。

ラマ1世期の1783年に築造。
八角形の形状で、当時のままかは不明ですが大砲も置かれています。


裏手に回ってみましょう。


マハーカーン要塞の裏側


意外。芝生が広がっていました。


パーンファーリーラート橋と聞いて、あれ? と思われた方、
スルドイです。

実はここのすぐ目の前で、赤シャツ派の集会が行われていたんです。

4月14日にここを引き払い、ラーチャプラソン交差点の一か所に
集結するまで、この一帯は赤一色だったんでしょうね。

赤一色と言えば、例の採血された血でスローガンが書かれた垂れ幕が、
ほんの一時期、このマハーカーン要塞に掲げてあったとか…。

そしてこの裏手の芝生も、赤シャツ派が去った後は
ゴミの山と化していたんだそうです。

バンコク都が清掃をおこなったので、今ではこの写真の当時の姿に
戻っているかもしれませんね。


さて、次回こそ「城壁」です!(笑)


つづく


 
※旅は2009年7月21日(火)に行いました。



マハーカーン要塞コミュニティ バンコク首都城壁を探せ! [2]

前回、マハーカーン要塞を見ました。

その要塞から南側に、例のガイドブックのとおり
首都城壁が伸びています。

向こうには、プーカオトーンが。


バンコク首都城壁


城壁は、結構先まで残っていますね。
おおよそ100メートルぐらいでしょうか。


バンコク首都城壁


真ん中に見える壁に空いた出口が気になります(笑)


くぐってみると、


マハーカーン要塞コミュニティ


そこには集落がありました。
マハーカーン要塞コミュニティ、と呼ばれているようです。


実はこの場所、タイの大衆演劇「リケー」発祥の地なのだとか。


リケーって恥ずかしながらまだ観たことがないんですが、
歌あり、コメディありの演劇のようですね。


ルーツはマレーにあり、昔にバンコクへ移住してきたマレー系の人たちが始め、
ラマ5世期に人気が出たようです。


そう言えば、ムスリムの多い地域に必ずある「鳥かご」が
ここにもかかってますね。


話はちょっと脱線しますが、この「リケー」という言葉、
由来がなんとも壮大なんですよ。

大元はなんと、何千年も前のヘブライ語「Zakhur」にあるんだとか。
神を称賛する言葉、という意味のようです。

これが、アラブに伝わり「Zikr」「Zikir」に。
ペルシャ人によってインドに伝わり「Dhikir」に。

さらに、18世紀末まで南タイにあったマレー系のパタニ王国に伝わり
「Dikay」「Jikay」に。

そしてバンコクにやって来て、「Yikay」と呼ばれるようになりました。

1909年、時のラマ6世が「リケー」(Likay)と呼ぶように定めて、
今の呼称でタイ語として落ち着いたんだそうです。


こういう文化・言葉の伝播って、面白いですよね~。


今でもここマハーカーン要塞コミュニティには
アーティストが集まり芸術活動を行っているとか。


そんな物凄い歴史を感じさせるスポットが、さりげなく残っていることにまず感嘆です。

そして、ひょっとしたら住民の芸術を守るという意識が、
ここにだけ城壁が長いままの姿で現在まで残ったことに影響しているかもしれませんね。


つづく


※旅は2009年7月21日(火)に行いました。

タマサート大学構内の遺構は? バンコク首都城壁を探せ! [3]

バンコク首都城壁がもっとも良い状態で残っているマハーカーン要塞付近を
後にした私は、一路ター・プラチャンのタマサート大学キャンパスへ。

そこにも「壁」の遺構が残っているのをご存知ですか?


前宮の壁跡


タマサート大学60周年記念棟と政治学部棟の間にある中庭に、
こんな感じでさりげなく遺構が保存されています。


前宮の壁跡


この壁の跡、何かのガイドブックだか現地フリーペーパーだかで
「バンコク首都城壁の跡」と紹介されたのを、私は読んだことがあります。

でも、実は違うんですね~。


これは、ラマ1世~5世期にここに存在した「ワンナー」(前宮)の壁の跡なのです。


証拠に、歴史を紹介した案内板もありました。


前宮の案内板


それによると、ワンナーは、タマサート大学のキャンパス、国立博物館の敷地を含み、
ピンクラオ橋のところまでという、結構な広さの敷地だったとか。

壁と要塞に囲まれていたようですね。


ここでワンナーと聞いて、以前「ワンラン」(後宮)について
ちょっと紹介したことがあることを思い出した方はいらっしゃいますでしょうか?


1/3の日記で、シリラート病院の敷地には、
かつてワンラン(後宮)があったと書きました。

チャオプラヤー川のこっち側のワンナーと、対岸のワンランで
セットになていたんでしょうね。


でも、それはいいけど、じゃぁ結局タマサート大学には
バンコク首都城壁の跡は無いの? という疑問が湧いてきます。


次回、そのことについてご紹介します!


つづく


※旅は2009年7月21日(火)に行いました。
元記事(楽天ブログ タイとタイ語に魅せられて)


 

タマサート大にある城壁 バンコク首都城壁を探せ! [4]

今回のバンコク滞在(食べ歩き)記は後にして、
「バンコク首都城壁を探せ!」を早く完結させることにします!


タマサート大学ター・プラチャン・キャンパス内の
60周年記念棟と政治学部棟の間の中庭にある壁の遺構は、
バンコク首都城壁ではなく、ワンナー(前宮)の壁だというところまで書きました。


じゃあ、このタマサート大学には、バンコク首都城壁跡はないのか?


それがあるんですよー。


場所は、中庭に面した60周年記念棟の1階です。

実はそこ、食堂になってます。
その食堂に・・・


タマサート大学のバンコク首都城壁レプリカ


こんな感じで佇んでいます(笑)


数年前までは無かったんですよ、コレ。
だから久しぶりに行って見かけた時にはビックリしましたよ!


勿論オリジナルの城壁跡ではなく、レプリカです。


でもですよ。

この60周年記念棟建設の際の発掘調査で、地中から首都城壁跡が
見つかったのだそうです。発掘当時の写真も展示されています。


タマサート大学構内の首都城壁発掘写真


城壁跡の真上にこのレプリカを作ったんでしょうかね。


時刻はちょうどお昼時。

バンコク首都城壁のレプリカを眺めながらランチをしない手はないでしょう~(笑)


バンコク首都城壁レプリカを眺めつつランチ


さて、私が前もって知っていたバンコク首都城壁の現存地&跡地は以上の2ヶ所。
でも後日、偶然発見したので、次回は最終回としてそこをご紹介いたします。


つづく


※旅は2009年7月21日(火)に行いました。

城壁がここにもあった! バンコク首都城壁を探せ![最終回]

それは昨年8月のバンコク滞在中のこと。

土地勘の無いアーリーから王宮前方面に行く用事があり、
通りそうなバスに適当に飛び乗ったことから始まりました。

何番バスだったか忘れましたが、馴染みの無い道ばかり通るので
子どもみたいに夢中になって車窓を眺めていました(笑)

すると、目を疑う光景が。


あーっ、城壁だ!!


確かにアレはバンコク首都城壁です!
慌てて次のバス停で飛び降りた私は、その前まで戻ってみました。


バンコク首都城壁


こんなところにもあったんだ~!


勿論ご存知だった方も多いでしょうけど、
この道を日中通ったことがない私は、今まで全く気付いてませんでした。

この道、プラスメーン通りって言うんですね。

チャオプラヤー河畔にあるプラスメーン要塞からバンランプー運河に沿って
走っています。かつて城壁はこの通りの外側に沿って伸びていたんですね。


通用口みたいな穴しかなかったマハーカーン要塞横の城壁と異なり、
ここにはしっかりした門も残っています。覗いてみましょう!


バンコク首都城壁の門


外側にはアパートがあるようです。
そしてその向こうは、バンランプー運河


よく見ると壁に銘板がはめ込んであります。

バンコク首都城壁は1782年に建設され、ラマ3世期(1824~1851年)に完成した。
1982年、ラッタナコーシン遷都200周年を記念して修復した。


…という旨のことが書かれていました。


もう一方からも眺めてみます。


バンコク首都城壁


実は後日、ラマ5世期(1868~1910年)に同じ場所を撮影した写真
掲載されているサイトを見つけたんです。

比べてみると、門の部分の高さが明らかに違いますよね。
昔のほうが高かったように見えます。
ということは、修復前は門の部分は恐らく原形を留めないほど崩れていたんでしょう。


まぁ修復とはいえ、こうやって歴史を感じさせるものが残っているのは
やっぱり嬉しいですよね。


ちなみに城壁の向かいには、ワット・ボーウォーンニウェートウィハーンがあります。
ここは、1950年代に故石井米雄先生が、70年代に青木保先生が出家したお寺です。


西方を眺めると、遠くにプラスメーン要塞が見えました。


プラスメーン要塞


かつてバンコク首都城壁沿いに14の要塞が築かれましたが、
現存するのはマハーカーン要塞と、ここプラスメーン要塞の2ヶ所のみなのです。


これで現存するバンコク首都城壁&要塞は全て見尽したと思うんですが、
もしまだ他にも残っている所をご存知の方がいらっしゃいましたら、
ぜひ教えてください!!


ということで、5回に渡り綴ってきました「バンコク首都城壁を探せ!」は、
これにて完結です。お読みくださいまして、ありがとうございました!!


おわり


 
※旅は2009年8月17日(月)に行いました。


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